に乃花-8
「こちらへどうぞ」
若い女性看護師はファイルを胸に抱え、やわらかい動作で私を案内してくれた。
「どうかあまり緊張なさらないように」
歩きながら看護師が言う。
「あのう、診てくれる先生は、女の先生ですか?」
「男の先生です。だけど安心してください。とてもすごい先生で、海外や国内のいろんな分野にも人脈を持っているエリートですから」
そうなんだ、となんとなく納得する私。
どんな職業でも上には上がいる。
どれだけすごいかなんて、私にはまったく未知の世界だ。
けれども彼女の言う通りの医師だとしたら、私はなんて幸運なのだろうか。
「こちらでしばらくお待ちください」
看護師が産婦人科の待合室を手で示すと、空いている椅子の一つに私は腰掛けた。
病院というところは居心地が悪くて当然だけど、その体感温度がさらに私を萎縮させる。
見れば私のほかにも数人の女性が、それぞれの悩みを抱えた表情で座っていた。
若い女の子もいれば、可愛い産着にくるまった赤ちゃんを抱いたお母さんもいる。
どんな目的で来たにせよ、あのドアの向こうでは皆おなじ恰好になるのだ。
どんなに澄ました顔をした女性でも、することをされれば、それなりの反応をしてしまうのだから。
そのとき、自分の体の思わぬ部分に血が集まっていくのがわかった。
熱くなるというのか、意識過剰になって触りたい衝動に駆られる。
不謹慎な感情がすぐそこにまで来ていた。
「小村さん、小村奈保子さん、一番にお入りください」
名前を呼ばれたのに、すぐには動けなかった。
心のどこかでまだ他人事のように思えて、しかも独特な空気に孤独を感じたからだ。
緊張した呼吸をできるだけととのえる。
そしてあきらめを瞳に浮かべて、けっして開けてはならないそのドアを私は開けてしまった。
「そこは鬼門だよ」
どこからか声がした。それはつまり、風水で言うところの鬼門のことを指しているのだろうか。
しかし声の主はどこにもいない。
今、私の目の前にいるのは、一人の若い男性医師と、こちらも若く見える女性看護師だ。
看護師のほうはお腹のふくらみが目立ち、おそらく妊娠の後期に入っているのだろう。
私は彼らとは面識がない。
それなのに、それなのに、初対面だという感じがしない。
医師は泉水と名乗り、看護師は佐倉と名乗った。
胸のネームカードにはそれぞれ、泉水陽真(いずみはるま)、佐倉麻衣(さくらまい)とある。
「よろしくお願いします」
私は会釈しながらも、この不可思議な出会いを必然のように思いはじめていた。