い乃花-1
臨月──。
「なんだか今でも信じられない気分だけど、あなたの言うとおり、もっと早いうちに不妊治療をはじめていればよかった。だって私、こんなにも幸せなんだもん」
「ようやく授かった子どもだ、大事に育てような」
「うん」
「ああ、そうだ、もう男の子か女の子かわかっているんだろう?」
「そのことなんだけど、じつはまだ訊いていないの。そのほうが楽しみが増えると思って」
「そうだな、無事に生まれてくれればどちらでもいいよな。それじゃあ名前も両方考えておかないといけないな」
「ねえ、電話じゃなくて、直接会って話さない?」
「よし、わかった。もうすぐ仕事が片付きそうだから、ええと、どこで待ち合わせしようか?」
「……」
「もしもし、奈保子?」
「うっ……んん……はあはあ……」
「どうした、大丈夫か?」
「ああ……いい……き……きたみたい……」
「まさか、陣痛がきたのか、奈保子?」
「ああ……ああ……き……救急車……救急車……」
あまりの激痛に意識を朦朧とさせながらも、私は必死に電話の向こうの彼に訴えた。
苦痛の声をあげるたびに歯の隙間から唾が飛び、体重を支えきれなくなった私は、とうとうその場にへたり込んだ。
指輪をはめた左手から携帯電話がすべり落ちて、もはや通話の相手をしている余裕もなくなる。
火にかけたままのヤカンの口から蒸気が吹き出している。
火を消そうと手を伸ばしてみても、そこまで届く気がしなかった。
全身に脂汗が浮いて、お尻のあたりを濡らす生温かいものを感じた。
いつの間にか破水していたのだ。
こめかみの血管がぴくぴくと震えて、酸欠になったように乱れた呼吸では、肺に酸素をため込むことがなかなかむずかしい。
出産とは、女性に苦痛しかあたえないのかと、このときばかりは人体の摂理を恨むしかなかった。
それでも妊娠を望んで母親になりたいと願うのは、女性の誰もがもれなく母性を持っているからであって、それはきっと私の中にもあるはず。
今を乗り越えることができたなら、新しい命と一緒に、私の第二の人生がはじまる。
そんな未来を描いていても、相変わらず私の子宮は鉛のように重く、マタニティドレスを汚していく露も、びしょびしょにシミをひろげていく。