追憶タイム 後編-1
「先輩は和食がお好きなんですか?」ミカがおしぼりで指先を拭いながら、向かいに座った拓郎に目を向けた。
「はい。シドニーに行ってから、なかなかあっちの食事に慣れなくて」拓郎は恐縮したように言った。
座卓に載せられた膳に茶碗蒸しが運ばれてきた。
ミカがその椀の蓋に手をかけながら、ふと見ると、拓郎はその容器をじっと見つめていた。少しだけ涙目になっている。
「先輩?」
「あ、ああ」拓郎は照れくさそうに目元を拭った。
ミカが問いかける前に、拓郎はその質問を先取りして答えた。「茶碗蒸し、僕の妻がよく作ってくれてたんです」
「奥様が?」
「そう。僕が日本食を食べたい、って言って、最初に挑戦したのが茶碗蒸し。でも最後までうまくいかない、って悔しがってました」拓郎は寂しそうに笑った。
「なんだか……素敵な思い出ですね」
「ごめんなさい。湿っぽくなっちゃって。さあ、食べましょう」
「はい」ミカはにっこりと笑って割り箸を手に取った。
夜の町を二人は歩いていた。都会の通りは人が多く、前から早足で歩いてくる人のかたまりをよけながらミカは言った。
「都会は人が多くていやだな。いらいらしちゃう」
拓郎は笑いながらミカを見た。「あなたの今住んでる町は、こんな感じじゃないんですか?」
「田舎っていうわけじゃないけど、ここよりは暮らしやすいと思います」
「そう」
「先輩、」
「え?」
「手を繋いでもいいですか?」
「えっ?!」拓郎は驚いて足を止めた。
「先輩とやりたかったけどできなかったこと」
「え、あ、あの、ミカさん、それはちょっと……」拓郎はあたりをきょろきょろを見回した。
ミカは笑いながら手を引っ込めた。
「あ、ごめんなさい、誰が見てるかわかりませんね。無神経でした、あたし」
「ぼ、僕の方こそ、すみません」拓郎は照れて頭を掻いた。「デートしたかった、なんて言っておきながら、こんな貴女の要求にも応えられなくて……」
ミカは拓郎に小声で言った。「二人でホテルに入る所、また誰かに見られると困るでしょうから、あたし、先に部屋に行ってます」
拓郎は頬を赤く染めた。「は、はい。すみません、気を遣っていただいて……」
「二丁目の『シティ・イン・アーバン』。予約してます。いかがわしいホテルじゃありませんから」ミカはにっこりと笑った。
「え? 予約?」拓郎は申し訳なさそうに頭を掻いた。「す、済みません、気が利かなくて……。でもミカさん、このあたりのこと、よくご存じですね。あ、そうか。前に住んでたことがあったんでしたっけ」
「はい」
「前からこんなでしたか?」
「ずいぶん賑やかになったみたい。あたしが勤めてたショップの周りも人通りが多くなった気がします」
ミカはちらりと横目で拓郎を見た。
「確かにあの通り、結構遅くまで人通りが絶えません」
「あのあたり、良く歩かれるの? 先輩」
「え? あ、はい。僕のアパートもあの辺なんで……」拓郎は照れたように頭を掻いた。
拓郎の胸の辺りからかすかなバイブの音が聞こえた。
「あ、先輩、ケータイ、鳴ってるみたい」ミカが言った。
「え? あ、」拓郎は慌てて内ポケットに手を突っ込んだ。「す、すみません、ミカさん、電話みたいです」
「どうぞ、ご遠慮なく」ミカは微笑んだ。
拓郎は立ち止まり、ミカに背を向けて、取り出したスマホを耳に当てた。
「あ、店長さんですか? すみません、すみません。え? あ、はい。知ってます。じ、実は、もう会ってるんで。はい。そうです。……わざわざありがとうございました。いろいろとお気遣い頂いて」
拓郎は振り向いて微笑んだ。「ごめんなさい、ミカさん」
「気にしないで」
ミカと拓郎はまたゆっくりと歩き始めた。