追憶タイム 前編-3
レトロな雰囲気の静かな喫茶店だった。ケンジとミカは大学時代、よくこの店でコーヒータイムを楽しんだものだ。当時と同じように、煎られたコーヒー豆を挽く香りと、ビル・エヴァンスのピアノが、賑やかな通りとは対照的な、どこか懐かしさを感じさせるような落ち着いた雰囲気を演出していて、ケンジはドアを開けるなり、思わず小さなため息をついた。
二階席の窓際のテーブルに二人は相対した。秋晴れの戸外からの光が、拓郎の片頬を明るく照らした。
大学生のアルバイトとおぼしき若い男性のホールスタッフが、二人の前にホットコーヒーのカップを置いた。
「始めまして」ケンジは拓郎に手を伸ばした。「ミカの夫の海棠ケンジです」
拓郎はその手を握り返した。
柔らかく、絹のような肌触りだとケンジは思った。
「ケンジさんが僕とミカさんとの過去をご存じだとは意外でした」拓郎は穏やかな顔つきでそう言った。
「彼女からは、あなたはオーストラリアに留学して、そのまま定住された、って聞いてましたが……」
拓郎は目の前のコーヒーカップを見つめながらゆっくりと口を開いた。
「はい。その通りです。その後いっしょに留学していた女性と付き合って、結婚して、そのままシドニーに住んでいました」拓郎の言葉が詰まり、少しの沈黙があった。「でも、二年前、妻は病気で先に逝ってしまって……」
「そうでしたか……」ケンジはようやくそれだけ言って、カップを持ち上げた。
「彼女との思い出の場所に住み続けるのが苦しくて、日本に戻ってきたんです」
「今はどちらにお住まいですか?」
「はい。シドニーで勤めていた企業の関連会社が東京にあるので、そこに配属替えをしてもらって、今はこのすぐ近くに住んでいます」
「お一人で?」
「はい。子どもはいません」
「お寂しいですね……」
拓郎は顔を上げた。「いえ、会社の同僚や部下がとても賑やかだし、会社の業績も悪くないし、仕事も順調で寂しいと感じたことはあまりありません」そして笑った。
胸が痛むほどの優しい笑顔だった。
「そうですか。それは良かった」ケンジは少しほっとしてカップをソーサーに戻した。
「すみません。いきなり声をかけてしまって。驚かれたでしょう?」
「あの店で偶然ミカを見かけられて、どうでした? 高校時代からずいぶん変わっていたでしょう?」
「いえ、あの……」拓郎は焦ったように腰をもぞつかせた。「ぐ、偶然ではないんです」
「え?」
「僕、あの店でミカさんを探してたんです」
「探してた?」
「はい。彼女の通っていたここの大学を高校の時の後輩に教えてもらって、おそらく所属していただろう水泳のサークルの方に情報をいただき、ミカさんがあの店に就職していたことを知りました」
「でも、よく僕らが今日あの店に行くことをご存じでしたね」
「それは偶然です」拓郎は笑った。「丁度店の前を歩いていた時、あなた方が中に入っていくのを見つけたんです」
ケンジは少しだけ肩をすくめた。「なるほど」
拓郎は躊躇いがちに言った。
「ミカさんの最愛のパートナーであるケンジさんに、こんなことを言うのはとても失礼だと思うのですが、僕は彼女への思いが、ずっと心の奥にひっかかってた」拓郎は慌てて付け加えた。「いえ、思い、というのは、その、決してよりを戻そうとかいう意味ではなくて、あ、あの人に対する申し訳なさ、というか……」
ケンジには何となくわかりかけてきた。拓郎はシドニーに発つ直前に、付き合っていたミカと初めて肌を重ね合わせたのだ。その時、確か彼はミカにいきなり別れを告げたということだったはずだ。
「僕の方から付き合ってくれ、って言っておきながら、一方的に別れを突きつけたんですから……」
「ミカは――」ケンジが穏やかな顔を拓郎に向けた。「その時はとても辛くて悲しかったでしょうけど、あなたの優しさにも触れられて、ある意味幸せだったんではないでしょうか。別れ際まであなたに大切に、優しくされたことは、今の彼女にとっては温かな思い出になっていると思いますよ」
「ケンジさん……」
「是非、ミカと会って、その思いを伝えてくださいよ。あ、」ケンジは窓の下の通りに目を落とした。「来たみたいです、ミカ」
「な、なんだか緊張しますね……」拓郎はそわそわし始めた。