ニンゲンシッキャク-8
チクショー、ババアー! 暑いし、だるいし。本当ムカつく。このままじゃ、ぜってー冬は猛暑だ。そう考えると、朝から貧乏揺すりが止まらなかった。どこにいても、左足は床と宙を行ったり来たりする。しかも、漢字の書き取り小テストは赤点で、放課後は呼び出されている。せめて、ラブレターを持った女の子に呼び出されてえ。ムシャクシャしながら、誰かにぶつかった。
「いってー、どこに目ぇ付けて歩いてんだ!」
思わず、怒鳴ってしまった。それが担任だと気付かず。
「荒れてますね、西東君」
「あ、前進」
見上げれば、前進がずり落ちた眼鏡を押し上げていた。
「せめて、先生を足してくれたら嬉しいのですが」
「俺、改名したいんだけど。どうすればいい?」
俺は前進の言葉をまるで無視して、詰め寄る。前進は全然ヘラヘラしていて先生っぽく無いが、一応先生だ。けど、改名方法くらい知ってるだろ。
「か、改名……ですか」
「そうそう、俺、波知じゃ嫌なわけ」
「いい名前だと思いますがね」
前進は一息吐く。けど、俺が知りたいのは改名方法だ。
「嫌だ、俺は八より七が好きなんだ」
「ああ、例のラッキーセブンですね」
「そうそう、前進話せるじゃん」
「しかし、名前は君の親が決めた大事な物でしょう」
「けど、嫌な物は嫌なんだ。俺の運が、逃げていく気がして」
「そうですか、ふむ……八も末広がりでなかなか良いと思いますが」
「末広がり?」
「例えば、これが末広がりです」
前進は、扇を取り出した。
「扇じゃん」
その扇を広げて逆さにする。涼しそうな赤い鯉が二匹、逆さになって泳いでいた。
「そうです、この扇を祝っていう言葉が末広です。この前、鴨長明の『方丈記』を授業で取りあげましたね。その中にも『扇をひろげたる様に末広になりぬ』という文が出てきます」
「で、何で八も末広がりなんだよ」
「いい質問です、見て下さい。逆さにした扇の形を」
扇の端を、前進の細い指先がなぞる。前進は男の癖に妙に色白で、細身だった。まぁ、あえて言うなら不健康そのものって感じ。
「あ、八だ……っつーことは、鎌倉時代辺りから八って結構めでたい数字って事なのか」
「はい、その通りです。たくさんという意味でも使われていますし、八方美人や八方塞がりもそうですね」
「なあなあ、八宝菜もそうか?」
「そうですね、日本や中国では特に縁起の良い数字だった様ですよ」
廊下で授業めいた事をする前進も前進だけど、こういうのなら面白いかなと思う。これからは、名前を書く時に少しは自信が持てそうだ。前進は、ズボンのポケットに扇をしまった。そこで、俺は一つ気になった事を訊く。
「所で、前進の名前の由来って何?」
一瞬、鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をしてから前進は口を開いた。
「子供の名付け事典で、最初に開かれたページの名前です」
前進は情けなく笑いながら。
波知って名前も、案外いいかもしれない。
「前川進も、結構呼びやすくていい名前だと思うぜ。但し、俺の次にだけどなッ!」
「あ、西東くん。放課後は漢字の書き取りテスト、補習ですからちゃんと勉強しておいて下さいね」
「ちょ……ッ、それを今言うかー? もう少し、空気読めよー」
「西東くんは、補習も酷く忘れやすいそうですから」
でも俺、もう少し暑くてもやってけそうだ。