第7話-7
結局、口ごもったままの英里の返答を待たず、
「まぁ、どっちでもいいけど。あたしが言いたいのは、圭輔の周りを付きまとうのはいい加減やめてよねってこと。教師が生徒に手を出したなんて知れたら、迷惑なのよ」
「付きまとうだなんて、そんなつもりは…っ!」
昂ぶりかけた感情を、何とか押し殺す。
どうして、この人に忠告されなければならないのか。
英里の気持ちなどお構いなしに、絢子は続ける。
「この前、圭輔と2人で飲みに行った時もあなたのこと聞いたんだけど、気まずそうにして何も答えなかったわよ。もし付き合ってたとしても、あなたのことばれたら体裁悪いわよね。だって、未成年に、しかも教え子に手出してたなんて」
「え…?」
足元が、崩れ去って、奈落の底まで突き落とされるような喪失感。
昼下がりの閑散とした喫茶店。木漏れ日が差す窓辺。
明るいはずなのに、英里にだけは何故か視界が暗転したかのように感じられる。
一瞬で、黒く塗り潰される。
「あたしと付き合ってた時は、知り合いにも堂々と紹介してくれたもの」
何気なく、独り言のように話しながらも、彼女の勝気な瞳だけは、完全に英里を見下していた。
「それって、やっぱりあなたとのこと、周囲に知られたくないってことじゃない?」
そんなこと言われる筋合いはない、なのに否定できないのは、彼女の言っていることは間違っていないから。
教師が生徒と関係を持つなんて、社会的にも倫理的にも許されたことではない。
付き合っている相手が、自分だと知られるのは、彼にとって迷惑なことに違いない。 苛立ちと、焦燥で目頭が熱くなる。
ぐらぐらと、視界が揺らぐ。
何も、言い返せない。
「付き合っていないなら、圭輔が好きで付きまとってるの?あなたとじゃ不釣合いだわ、早く諦めて身の丈に合った相手探した方がいいわよ」
気にしていることばかり、いちいち的確に突いてくる。
「昨日はね、圭輔にうちに泊まってもらったの。勿論二人きりで。ストーカー被害に遭ってるから怖いって言ったら、すごく心配してくれて。優しいわよね」
頭の奥で、がんがんと、響く、鈍い音。
頭痛と吐き気が酷い。
体の力が抜けて、その場に崩れそうになる。
これ以上、そんな話聞きたくない。
「……何も言わないんだ。どうしてあなたみたいな子どものお相手をしてあげてるのかしら」
溜息混じりに、そう呟いた彼女の言葉。鋭く胸に突き刺さる。
「今日は帰るわ。お金、2人分置いておくから宜しくね。あ、それと」
英里は顔を上げる。視線がぶつかる。
彼女の、自信に満ちた挑発的な視線。
対するにはあまりにも脆弱な、自分の瞳。
「あたし、まだ圭輔のこと、好きなの」
口を開かない英里に興味を失したかのように、彼女はそれだけ言い放って、立ち去った。
俯いたままの英里だけが、その場に取り残される。
さっきの女性の話は本当なのだろうか。いろいろなことがありすぎて、頭の中が整理できない。
そして、昨晩は二人きりで過ごしたなんて。
この前のプロポーズは何だったんだろう。
からかわれていたのだろうか。
でも、大切な事をはぐらかすような人じゃないはず。
それなのに。どうして?
もう、到底戻れないところまで来てしまったのに。
涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。
心臓に、太い杭を打ち込まれたように、重い。
身体も、鉛のように動けないほど、重い。
早く、この場所から離れたいのに。
(わからない、何を信じたらいい…?あの人にまで裏切られたら、私は…)
あれから、何時間この場所に座っていたのだろう。
元々人気の少ない喫茶店で、何も追加注文をせずに、ぼんやりと机の上の空のグラスを物憂げに見つめている英里の姿は、店員や他の数少ない客の目にはさぞ奇異に映ったことだろう。
いつの間にかすっかり日が暮れ始めて、斜陽が英里の横顔を照らす。
夕焼け色に染まった茜雲が流れ行く様子が、窓に映る。テーブルの上の空のガラスも黄昏の暗い赤。
英里は、重い体を何とか持ち上げて、店を後にした。
そして、気がつくと、圭輔の部屋の前に立っていた。
勝手に指先がインターホンを押していた。
生憎、彼は不在。すぐに彼の顔を見ずに、ほんの少しだけ安堵した自分自身がいた。
カバンの奥を探ると、指先に、冷たい感触が触れる。使わないつもりだった合鍵。
思い切って、それを取り出すと、鍵穴に差し込んだ。
古いアパートで、何度か鍵が引っ掛かって上手く開けられなかったが、がちゃりと音を立てて、鍵が開いた。
ゆっくりと、ドアを開くと、いつもの彼の部屋の風景が英里の目の前に広がった。
以前、数日だけ共に過ごしたこの部屋。
靴を脱いで、ふらふらと、部屋の中へと進む。
薄暗い部屋。音のない静かな空間。電気も点けずに床に座り込む。そのまま、立ち上がる気力が湧かない。
自分が見合いを迫られているというのに、どうして彼は自分以外の別の女性と親しく会っているのだろう。
昨日は、彼のためなら他の全てを捨ててもいいとさえ考えていたのに。
(ずっと一緒にいたい、なんて、やっぱり無理だったんだ……)
弱い自分じゃ、彼を守れない。
何だか、途轍もなく疲れてしまった。
もう何も考えたくない。
ゆっくりと目蓋を閉じれば、視界が暗くなってゆく…。