第7話-6
『ただの気の迷いだわ。早く目を覚ますことね。あの男に惑わされてるだけよ』
ふと、昨日母に突きつけられた言葉が、頭の片隅に思い浮かんだ。浮かんでは消える。その繰り返しで、いつしか、全ての思考がその言葉に支配されていく。
(やめて……っ!)
思わず、耳を塞ぎながら、来たばかりの道を早歩きで後戻りする。
気持ち悪い。頭の中がざわざわうるさい。静まれ、静まれ。
大嫌いな自分が剥き出しになりそうになる。
逃げ出したなんて、敗北を認めたも同然なのに。
でも、どんな顔で、出て行けばいいのだろう。何も聞きたくない。
苦しい、息苦しい。
立ち止まり、ふと見上げた曇りひとつない、哀しいぐらいの青い空。
零れた涙が耳朶を伝って、横髪を濡らす。
「絢子、わざわざ送ってくれてありがとな。……これから大丈夫なのか?」
ドアを開けて、圭輔は心配そうに声を掛ける。
「ええ、たぶん昼間は大丈夫だと思うから」
「いや、ならいいんだけどさ。気をつけて帰れよ。それに、ちゃんと警察に相談したほうがいいぞ」
心配そうな圭輔の顔を、絢子はじっと見つめた。
(…ほんと、ばかよね。迷惑なら迷惑って言えばいいのに、お人好しなんだから)
非情になりきれない、それが彼の良いところかもしれないが。
「ねえ、圭輔」
「……?」
気付けば、彼女の顔が、やけに近くにある。
そう思った途端、微かに香る、香水の香り。
慌てて身を引いたが、既に遅かった。
彼女の腕が背中に回り、胸元に顔を押し付けてくる。
「圭輔、一緒にいてくれて、ありがとう。じゃあね」
にこりと微笑んで、すっと体を離すと、彼女は運転席のドアを開けて、車内に乗り込んだ。
まだ呆然と立ち尽くしている彼を後目に、エンジンをかけた。
(少しは、あたしのことも意識したらいいんだわ。それに……)
これから、もう一人、話をしたい相手がいるから。
向けた視線の先には、呆然と立ち尽くした、英里の後姿を捉えた。
「……あなた、この前も会ったわね、こんにちは」
1台の車が彼女の真横で停車し、突然車内から声を掛けられた。
英里は涙を拭いつつ、振り向く。どうして、彼女が自分に声を掛けてくるのか。
「…はい…」
緊張で口が渇いていて、上手く喋れない。彼女の顔を見るのさえも辛い。
「圭輔なら、今帰ってきたわよ。用事あるんでしょ?」
今、彼に会ってしまったら自分がどんな醜態を見せてしまうかわからない。怖くて、会えるはずがない。
「別に、会いに来たわけじゃないですから。たまたま近くを通りかかっただけで」
苦しすぎる言い訳。情けなくて居た堪れなくなる。早く、立ち去りたい。
「そうなの。ねぇ、もし時間あるなら、これからお茶でもしない?勿論、私の奢り」
「……どうしてですか?」
声が震えそうになるのを必死に堪えて、辛うじて英里はそう答えた。
この女性は、一体どういうつもりなのだろう。
探るように、英里は控えめに返事をした。
「一度あなたと話してみたかったの。私、藤森絢子。圭輔の大学時代からの知り合い。あなたは?」
「水越英里、です」
「英里ちゃんね、圭輔先生の可愛い生徒さん」
そう言って、意味深に微笑んだ。
英里の表情が僅かに強張った。
どうして、この女性がここまで知っているのだろう。
「どう?圭輔について、知りたいことがあるなら教えてあげるから」
俯き加減のまま、黙って唇を噛む。
聞きたくない。この人の口から、自分の知らない彼の話なんて聞きたくないのに。
「……わかりました。行きます」
気が付くと、英里は承諾していた。
口角を上げて微笑む、綺麗に口紅を引いた形の良い唇。
正面の女性の自信に満ちた表情は、美しいが好戦的で、それがまた魅力的に映る。自分の存在なんて霞んでしまって見えなくなりそうだ。
張り合って、どうなるというわけでもない。だが、ここで引き下がってしまうのは、無性に悔しかった。
顔を上げて、ようやく英里は正面から彼女の顔を見据えた。
駅の近くの喫茶店で、2人はしばらく無言で対峙していた。
ブラインドから零れる光が、正面の女性の顔を淡く照らし出す。
くっきりとした目鼻立ちに、完璧なメイクを施したその表情は、どの角度から見ても美しい。
レモンティーのグラスに添えられた手、指先を飾る綺麗なネイル。
彼の近くにいる、大人の女性。
足を組みかえるその仕種だけでも溜息が出そうなほど、大人の色香に溢れている。
その点、萎縮してしまっている自分の情けない姿はどうだろう。
勢いでここまでついてきてしまったものの、完全に相手のペースだ。
英里は、ぐっと膝の上で拳を固く握った。
完全に、彼女の醸し出す雰囲気に呑まれてしまった。
言いようもない劣等感に苛まれそうになる。
「…飲まないの?遠慮せずにどうぞ」
彼女は、ちらりと、英里の手元のグラスを一瞥する。
「あ、はい。いただきます」
「……率直に聞くけど、圭輔とあなたって、付き合ってるの?」
喉を潤し、少し気を抜いた瞬間を狙って、いきなり核心をつくような質問を投げ掛けてきた。
英里は、驚きのあまり目を見開いた。
彼の立場を考えれば、正直に交際していることを告げない方がいいに決まっている。
なのに、何故かすぐに答えられなかった。
彼女の前で、自分の位置付けをはっきり示してやりたい衝動が体中を駆け巡る。