第7話-5
友人と別れて帰宅した英里は、自宅のドアを開けると、珍しく両親が揃っていた。
離婚についての話を進めているのだろう。
そんな会話を耳にしたくなく、そのまま立ち去ろうとすると、
「……英里、またあの人と会ってたんじゃないでしょうね?」
顔を合わせた途端に、汚いものを見るかのような目つきで、尋ねてくる。
最近、問い掛けられるのは、まるで詰問のようにその事ばかり。そんな母親に、辟易する。
「会ってない」
ちらりと一瞥しただけで母から顔を背けて、そのまま自室に戻ろうとするが、
「これ以上、あんな人と付き合い続けるっていうなら…わかってるわね」
「…っ、先生に、迷惑を掛けるようなことはしないで!」
その一言が聞き流せず、思わずカッとなってしまう。
「そう思うなら、早く別れることね。私達が、あなたに相応しいお見合い相手を探してあげたから」
母親が不意に発した信じられない言葉に、英里は一瞬耳を疑った。
「え、お見合い…?」
「そうよ。早速、来週お会いしなさい」
「そんな、勝手にお見合いなんて!私は…あのひとが、好きなの。愛してるの…」
我ながら、相当に血が上っているようだ、と彼女は思った。両親の前で、こんなあられもない告白をしてしまうなんて。
だが今は、感情を、理性で歯止めが掛けられない。
「……全く、こんなことになるなんて情けない。教師のくせに、いかがわしいったら。どうしようもない人間に決まってるじゃないの。分別のある大人なら、子どもに手なんか出さないわ」
「ちゃんと話もしないで、どうしてあの人のことがわかるの!?」
母親は先程までの侮蔑の視線に、微かに、憐憫の色を織り混ぜたような目付きで、激昂する英里を見つめた。
「ただの気の迷いだわ。早く目を覚ますことね。あの男に惑わされてるだけよ。あなたは、ちゃんとわかる子だったでしょう?」
聞き分けのない子を諭すように、母親は言い含める。
ぎくり、と身が強張る。
そんな顔、しないで。まるで頭がおかしくなった子みたいに、そんな瞳で見ないで。
(おかしくない。私は、私達は何も……)
どうして、堂々と反論できないのか。体が竦んで、言葉が出ない。
悔しげに唇を噛んで、たまらず英里は両親から目を背けた。
父親は一言も口を挟まなかったが、誰よりも世間体を気にする性質だ。
きっと、母と同意見で、認めてくれているはずがない。
母親は父親の方をちらりと見た後、また英里の方に視線を戻し、溜息混じりに、
「仕方ないわね、あなたがそこまで言うなら、私たちにも考えがあるわよ」
「考え……?」
「あなた達の関係を、学校に相談するわ。そうなると、彼がどうなるか……言わなくても想像できるでしょう?」
「そんな、酷い…っ!私が悪いの、先生は何も悪くないんだから!」
「仮にそうだとしても、世間的には教師が未成年の生徒に手を出したとしか思われないでしょうね。彼の人生を傷付けることになってもいいの?」
「あ……」
突きつけられた、あまりにも惨い現実。
それは、付き合い始めた当初から一番彼女が気に病んでいたこと。
どれだけ、互いが純粋に愛し合っていたとしても、世間からは非難されるのを免れない。
「いやなら、お見合いするわね?私達は、あなたのことを一番に考えて言ってあげてるのよ」
見合い…見た事もない相手と結婚だなんて考えられない、会いたくない。
彼女の決断を迫る、両親の視線が突き刺さる。
もう、答えはわかりきっている。
―――断れるはずがない。
だが、口にしたくなかった。彼との関係を、こんな形で終止符を打たなければならないなんて。
ようやく、英里はぐっと下唇を噛み、何とか声を振り絞った。
「わかりました、お会いします。そっちも、約束だから…」
あまりの絶望の大きさに、声が震える。
重い足取りで自室に戻り、ドアを閉めると、力なく床に蹲る。
この関係は、そんなにいけないことなのだろうか?
他人に否定されるような、汚らわしい付き合いなのだろうか?
(圭輔さん……)
自分達は間違ってないって、囁いて、安心させて欲しい。
均衡が保てず、ゆらゆら揺らぐ不安定な気持ち。
一人きりだと、心が折れてしまいそうになる。
翌日の朝、英里は、圭輔の家へと向かっていた。
眠れない夜を過ごし、どうしても、彼の顔を見たくて堪らずに来てしまったのだった。
もうすぐで彼のアパートの前に着くといったところで、彼女の足はぴたりと立ち止まった。
一瞬自分の目を疑った。しかし、見間違いではない。
モノクロの静止画のように網膜に焼き付く、その光景。
自分の周りだけ、時間が止まったかのように、動き出せない。
一台の車が、止まっていた。その中から出てきたのは、彼と、もう一人の女性の姿。
(うそ、うそだよね……どうして、あの人が、ここに…?)
この女性には見覚えがあった。
以前、圭輔のアパートを訪問した時にいた、彼の友人の女性だ。
もしかして、ずっと二人きりだったのだろうか?
いや、前みたいに、他の友達と一緒なのかもしれない。
どきん、どきん、と胸がざわめく。嫌な胸騒ぎ。呼吸が辛い。喘ぐように、必死に息をする。
頭に浮かんだろくでもない想像を否定しようとするが、完全には振り払えない。
ドアの前に佇んでいる女性。朝の陽の光を受けて、微笑んでいる表情が一層鮮やかだ。自信に満ちた、その姿。まるで、自分の方が除け者のような気持ちになる。
(こういう時、どうしたらいいんだろう。二人の前に出て行けばいいの?だって私は、あの人と付き合っているんだから、何も躊躇する必要なんて……。でも、もし、私の方が邪魔な存在だとしたら?ううん、そんな事、ないよね。だって…あの日、私に……)