前章-1
庭の鶯達が嚶鳴(おうめい)している。巣立ちしてから未だ日が浅いのか、愛嬌のある覚束ない声で、競い合う様に鳴いている。もう暫くすると、そこかしこで上達した美しい音色を奏で、人々の耳を楽しませる事だろう。
そんな気も和む朝を迎えたと言うのに、伝一郎は一人、悄気(しょげ)た顔で床に伏せていた。今日は伝一郎の通う小学校の卒業式で有り、即ちそれは、愛して止まない母との別離を意味する日で有る。
(何で今更、父さまの処なんかに……)
母、菊代による、伝衛門の子として本家の人間に為ると言う申し渡しは、伝一郎にとって不幸以外の何者でも無かった。
父に思う──これ迄、僕や母さまを散々、遠ざけてきたくせに、どんな理由であれ必要とされるのは今更な感じだ。
それに、僕は父のせいで“妾の子”として随分、虐げられて来たし、母さまだって生きる為に随分と辛い目に遭った。
此等について、良心の呵責は無いのか。
(それに……)
伝一郎が解せ無いもう一つの理由。それは何故、母は伝衛門の要求を受諾したのかと言う事だ。
「やっぱり、僕が邪魔なのかな……」
申し渡された時、伝一郎は強く拒否した。とても正気の沙汰とは思え無かったからだ。
すると菊代は、悲愴な表情となって、
「お願い、言う通りにして頂戴」
両手を畳に付き、唯々、受諾してくれるよう我が子に頼み込んだのだ。
「母さまと離れるなんて、絶対に嫌だ!母さまは平気なの」
「伝一郎……利き分けて頂戴」
幾ら母の頼みでも絶対に嫌だ──喚き散らし、必死に抗いの態度を示すが、哀願のみを繰り返す菊代と相対する内に、伝一郎の中に有った抵抗の気力は次第に萎えて行った。
「僕が居なくなったら、母さまは如何なるの?」
「私の暮らし向きなど、貴方が気に病む必要はありません。貴方は、自分の行く末だけを案じてれば良いのです」
「そんな!たまには訪ねて来ても良いでしょう?」
「駄目です。貴方はこの先、本家の人間として立派に学業を修め、お父様をお支えする存在となる身。
それに貴方が居なくなれば、私は此処を出て行くつもりです」
何より「己を犠牲にして全てを収める」と言う意志にて、菊代は我が子を選びようの無い道へと追い込んで行った。
これ程、厳然たる態度を貫く彼女が、何故、我が子と目交(まぐ)わうと言う、“道為らぬ”行為に至ったのか。一度は強く拒絶し、毅然さを振舞ったにも拘わらず、何故、人外たる道に溺れてしまったのか。
それは一月前、田沢伝衛門が訪問した時に迄遡る。
「──ど、どう言う事ですか!」
菊代は、伝衛門の一言に激昂した。対して伝衛門は、臆した様子も無く言葉を繰り返す。
「言った通りだ。伝一郎を、嫡子として迎えると。異論は聞かん、明日迄に支度させておけ」
余りの傍若無人ぶりは、菊代に時の残酷さを教えた。
かつて相愛し、生木を裂くように別離させられた男。だが、あの頃感じていた“優しさ”を、何処かに置き去りにして来た様な挟量ぶりが目立つ。
そう思った瞬間、菊代の胸中に禍々しい修羅が生まれた。