前章-9
「そんな顔をしても駄目だよ。でないと、汗疹は掻いたら酷く為るからな」
「うう〜」
首許の赤い湿疹は僅かだけ。今処置して置けば直ぐに良く治る。が、千代子の様子からして、大人しく入ってくれないだろう。
「その代わり、お母さんが戻ったら、アイスクリンを食べに行こう」
「あいすくいん、食べゆ!」
アイスクリンと聞いて、千代子の目が輝いた。最近、百貨店に出来た喫茶店で評判の食べ物で、一度食べた千代子は、すっかり気に入っていた。
唯、一杯の値段が米四升分とかなり高額な為、庶民の食べ物で無いと、菊代から固く禁じられていたが、伝一郎は汗疹を治す為に仕方無いと思った。
「じゃあ、入ろう」
「うん!」
千代子を何とか宥めすかし、風呂場に連れて来た。湯船の残り湯を木桶に汲み上げて、
「少し冷たいからな」
「うん……」
千代子は、言われた途端、全身に力を入れて、心構えに掛かる。
「そんなに踏ん張らなくても、大丈夫だよ」
伝一郎は先ず、足から残り湯を掛けて行った。千代子は固く目を瞑り、必死に水の恐怖に耐えてる様子だ。
「次は首に掛けるぞ」
二杯目は首から下を中心に。今度も目は瞑っているが、さっき程、表情は硬くない。少し馴れた様子だ。
「よし!あと一杯だぞ」
此処で一気に表情が引き締まった。幼いながらも、次の一杯が一番大変だと知ってるのだ。
「いくぞ!」
伝一郎は、千代子の頭から残り湯を浴びせた。
「ひーっ!ひーっ!」
千代子が悲鳴を挙げた。水の怖さを必死に堪えていたが、とうとう我慢出来ず、浴びせられた途端、半べそをかいてしまった。
「偉かったぞ千代子、良く頑張ったな!」
父親に褒められても、表情は未だ硬い。この先に試練が続く事を解っているのだ。
「──次いでに、今日は髪も洗ってしまおうか!」
「いや!おとーしゃん、いや」
顔をしかめ、懇願する様に両手を擦り合わせる仕種は、一体誰に教わったのか──伝一郎は、思わず吹き出しそうになってしまう。
「駄目だ。ちゃんと洗って無いと、頭に虱(しらみ)が涌いて痒くなるぞ」
伝一郎はそう言うと、風呂場の片隅に置かれた小ぶりの坪を引き寄せ、葢を取った。