前章-7
「……どうか、宜しくお願い致します」
菊代が、伝衛門に向かって深々と頭を下げたのを見て、伝一郎は又も驚きを胸にした。
言葉を受けて伝衛門も、強く肯いた。
「案ずるな。お前との約束、必ず成し遂げるからな」
二人のやり取りは、伝一郎に“かつて愛し合った者”が見せる不思議な関係を教えた。
表面では距離を保ちながら、何処か根っこの部分は繋がっている様な雰囲気を。
(何故、母さまは今更、父さまとあんな風に……)
そう考えた時、真っ先に思い浮かんだのは晶子の顔だった。
(そんな馬鹿な!)
次の瞬間、伝一郎は自分の想いを強く否定した。母であれ、伝一郎と菊代は肌を重ねている関係で有って、伝衛門は既に昔の男のはずなのだ。
それなのに、菊代と伝衛門の見せた“寛容さ”に繋がりを認め、自分と晶子を重ね合わせた愚かさ。
(僕には、母さましか居ないんだ……)
伝一郎は、菊代との将来を想う──今は何の力も無いから言い為りも仕方が無い。が、近い将来には必ず手にして、母さまを僕だけの物にしてやると。
身の毛もよだつ結論を胸に、伝一郎は馬車に乗り込み、伝衛門の屋敷へと連れられて行った。
元号を大正と代えた初めての八月は、朝から蒸していた。一昨日から降り続いた雨が、未明になって漸く止んだからで有る。
「では、直ぐに戻りますから」
「心配せずに行っといで」
出掛ける菊代を、伝一郎は優しく送り出す。仕上がった仕立て物を、相手先へ納めに行ったのだ。
生きる為に就いた仕立ての仕事も、早十年と為るが、今ではその腕を見込まれて茶道や華道を生業とする上客が、名指しで頼んで来る程と成っていた。
伝一郎が伝衛門の嫡子となった五年前より、再び“充分な施し”を与えられる事に為った菊代だが、その金は銀行に預けたまま一切手を付けず、一途に自分の稼ぎだけで暮らしを立てていた。
伝衛門にすれば、奪った子供の事や、過去の精算の償いのつもりだろうが、菊代にとって、この金は「伝一郎を売った金」で有り、決して手を付けては為らない金と位置付けている。
しかしながら、受け取りを拒ま無いのは、万が一、我が子に金が必要となった事態に備えての意味で有った。
菊代を送り出した伝一郎は、二日ぶりに戻った日射しの強さに閉口する。
「これじゃあ、朝っぱらから汗が止まんないな」
恐らく、子供逹も同じだろうと彼は思い、一計を案じた。
「千代子!千代子は、お父さんと遊ぶか?」
優しい言葉に、無垢な瞳がキラキラと輝いた。
「うん、あしょぶ!」
「よし!幸一も入れて、三人で遊ぼう」
千代子は、我先にと幸一の眠る部屋に走って行く。その動きはまるで、ぜんまい仕掛けの玩具を連想させ、姿を追う伝一郎の眼をとろけさせずに置か無い。