前章-5
「でも僕は、必ず帰って来る。帰って来てもう一度、母さまと一緒に暮らすんだ……」
晶子は、伝一郎が口にする言葉の端々に、普通とは思えない両親への感情を垣間見た。
特に母への想いを聞かされた時、鳥肌が立つ程の寒気を覚えたのだ。
それは、彼女の持つ伝一郎の印象からすると、随分と駆け離れた物に思えた。
だからと言って、晶子はどうこうするつもりも無いし、出来る訳でもない。人其々、柵(しがらみ)の中で生きている事は、彼女自身が身に染みて解ってるつもりだった。
「私もね……今日が最後なの」
「えっ?」
それは、余りに唐突な言葉であった。
「それって、どういう意味?」
「今日の卒業で……私、水茶屋の下働きに奉公に出されるの」
行く々は芸子として一本立ちし、大店の旦那に身請けしてもらう──晶子の未来は、切実なる現実によって形作られていた。
「口減らしなんだって……私」
夫婦で行商を生業とする家庭の長女として晶子は産まれ、下には五人の弟妹が居る、言わば“貧乏人の子沢山”で有り、来春には下の弟が小学校に通う事に為っている。
そんな貧困一家にとって、女の学問は“意味の無い代物”で有り、それよりも“家の為に身を売る”事の方が何倍も尊いと考えられていた。
現に、小学校を卒業した子供が直ぐに働くのは珍しい事で無く、そのまま中学へ進める子供の方が少なかった。
晶子の将来図を聞かされ、伝一郎は慰めや励ましを口にする訳でなく、唯、黙って肯くしか出来なかった。
輝かしい未来の自分を想像出来た幼年期を終え、それらとは駆け離れた現実を突き付けられても、晶子の表情は既に覚悟を決めた様に、何時もより穏やかさに満ちていた。
そんな彼女を見て、伝一郎は自分が恥ずかしくなった。
自身の運命を呪い、父を憎みながらも、現実に流されるしか無いと信じている自分。嫌だったら、独りで生きて行く道も選べるのに、踏み出す事が怖くて出来無いのを。
「本当は……絵描きになりたかった」
ぽつりと言った晶子に、伝一郎はどう返すべきだろうと考えるが、何も浮かば無い。何か言って元気付けてやりたいのに、つい、話を別の事へと切り替えてしまった。
「ほ、奉公先は?もう決まったの」
「うん。東京の新橋って所」
「そう……」
暖かな日差しと、辺りから香る春の息吹き。門出に相応しい日を迎えたと言うのに、二人はそれきり黙ったまま、最後となる学校迄の道程を噛み締める様に歩いて行った。