前章-4
別離に涙していた菊代同様、伝一郎は、家が見えなくなった所で走るのを止めてしまった。
「式なんか……無くなれば良いのに」
母との愛と情欲に満ちた日々は、利己的な大人の力で引き裂かれてしまう。だからと言って、今の伝一郎に拒絶するだけの知恵も勇気も無かった。
唯、為り行きを受け入れる事しか出来無いと、虚しさを噛み締める。
「こんな士官みたいな格好……滑稽なだけじゃないか」
やがて幼い頭の中で、「母は父に従うしか無かった」と言う身勝手な解釈が発生し、代わって未だ見知らぬ父を、事の元凶であり憎悪の対象だと言う答えに至った。
悔しさを募らせ、俯き加減で学校へと向かっていた伝一郎は、道途中で不意に誰かとぶつかってしまった。
「あ、ご、ごめんなさい」
「えっ、ああ……」
面を上げると、そこには三神晶子の姿が有った。
「三神さん、御免。何処もぶつけ無かった?」
選りに選って、相手は男子に厳しい晶子である。怪我の有無を確かめねばと、伝一郎は慌てて駆け寄った。
しかし、晶子は、何時もと違う。大きく目を見開いたまま、身動きもせず固まっている。
「な、どうしたの?……その格好」
この辺りで洋服を着ている者など、余程の金持ちでハイカラ好きしか居ない。故に、人々からは好奇の目で見られ勝ちで、晶子も又、初めて見る洋服を着た者が伝一郎だった事も手作って、酷い驚き様だった。
自身が、洋服に違和感しか覚えない伝一郎にとって、晶子の反応は至極当然に感じた。
「母さまは似合うって言ったけど……やっぱり変だよね?」
「ち、違う!」
晶子は頬を上気させ、慌てた様に両手を振り、強い否定を示す。
「洋服なんて、初めて見たからびっくりしただけ。田沢君……よく似合ってる」
「ほ、本当に?」
「うん。何だか凛々しく見える」
偶然にも菊代と同じ言葉を晶子からも聞き、伝一郎は、先程迄の陰鬱さが消え、大分機嫌が良くなった。
「今日で卒業だからって、母さまが用意したらしくて。本当は、父さまが送って来たみたいだけど……」
「田沢君、お父さんが居たの?」
初めて聞かされる父親の存在に、晶子は興味を持つ。対して伝一郎は、明らかな不快さを顕にした。
「うん、居たんだ。会った事も無いんだけどね」
何とも奇妙な言い回し。訳有りなのだと晶子は心境を察した。
「変わってるのね……会った事無いなんて」
「そう……ずっと、僕と母さまを知らんぷりしてたくせに、今頃になって……」
伝一郎から感じたのは強い憤りだった。
「──おかげで、みんなと同じ中学じゃ無くて、寄宿学校に行かされるなんて……」
不満の詰まった言葉を、晶子は黙って聞き流す。彼女自身、聞き役になる位しか出来ないと解ってるからだ。