前章-20
「それは……」
伝一郎が何かを訊こうとした次の瞬間、エンジンの音はけたたましさを増し、身体が後ろに持って行かれそうに為った。
「ぐっ……!」
馬車と比べ物になら無い程の蹴飛ばし。景色の流れる様が、ぐんぐん上がって行く。
「当たる風が痛い!これは凄い乗り物だ」
黄塵と白煙を撒き散らし、自動車は駅舎から離れる。残された見物人達はその後塵に、目と鼻を刺激されて酷く咳き込んでいた。
「これって、幾ら位するの?」
それは唐突な質問であった。
「どうなさったんです?」
香山は不可解と言う顔に為った。が、伝一郎は確かめずに居られ無い。
「今度の、即位の礼にも自動車が用いられると聞いたから。
陛下が御所望に為られる位だから、相当の金額なんだろうと思ったんです」
「天皇家と比べて頂けるとは、親方様も喜んでおいででしょう。確かに、相当だったみたいですよ」
「やっぱりそうですよね」
「私には、ニ十万円と仰有っておられました」
「に、ニ十万円!」
二十円で、五人家族が悠々と暮らせる事を考えれば、ニ十万円は想像を絶する、目も眩む位の金額である。
これ迄、築いた街の規模や屋敷での生活様式から、それとなく成功者としての伝衛門を見て来た。が、今、こうしてとてつもない代物を目の前にし、改めて石炭の及ぼす力を直に感じさせられた。
そして、同時に恐怖も。
(将来、俺がこれ等を継ぐのか……)
残された時間は刻一刻と失われている。漠然とだった物が現実味を帯びて来た事に、伝一郎は圧し潰されそうな気分に為った。
だが、逃れたいとは決して思わ無い。それは即ち、菊代との生活にも拘わって来るからだ。
“秘めたる想い”だけが、今の彼を支えていた。
「お疲れ様でございます」
「こっちこそ、我儘を聞いて貰って。楽しめたよ」
駅を出た伝一郎達は三十分後に屋敷へ到着いた。
通常なら、半分の時間しか掛から無い道程を、香山は倍の時間を掛けた。街中を巡回すると言う、一見不必要と思える行為に至ったのだ。
しかし、これを“御披露目”と考えれば自ずと見方も変わって来る。伝一郎を下々の者にひけらかす事で、次代の主人が誰で有るのかを報せる役目を果たすのだ。
唯、やられる伝一郎の方は複雑で有る。今日は、自動車と言う力を借りたおかげで道程を長く感じ無かったが、これ迄は晒し者にされてる様な気分がして、酷く傷付いた物だった。
「父さまは?もう待ってるんですか」
「いえ。夕食時には御戻りに為られるそうです。代わりに奥様がお待ちです」
「貴……義母さまが?」
「ええ。さあ、参りましょう」
邸宅は、異人館を思わせる様式を採用していた。が、外観が煉瓦や石作りと言うだけでは無く、木材をも組み合わせて構成されていた。
口さがない者達は、本物に対する“偽異人館”等と陰口を叩くが、伝衛門は我関せずで有った。
彼は邸宅を建てる前に、幾つもの本物を視察した際、本来は日本の様な高温、多湿の気候には不適だと結論付けた。
故に、日本の気候に適した異人館を目指したのである。
出来上った邸宅の横板を重ねた板壁や傾斜の強い屋根は、欧州と言うよりも米国の趣を表している。