前章-12
「後は、お母さんの帰りを待つばかりだ」
準備が整って程無くして、仕立て物を届けに行った菊代が戻って来た。
「おかーしゃん!おかえい」
出迎えた娘の変わり様に、菊代は微笑んだ。
「あら?千代子。おめかしして何処に行くの」
「おとーしゃんとあいすくいん!」
訊ねられた二歳児に、父と結んだ約束等無きに等しい。途端に、菊代が渋い顔をして伝一郎を一瞥した。
「ちょっとお父さん、こっちにいらっしゃい」
直ぐに伝一郎を千代子から遠ざけて、苦言を呈する。
「六十銭もする高価な食べ物を、簡単に子供に与えるのは……」
「でも、汗疹の治療で千代子を行水させるのに約束したんだよ」
伝一郎が弁解しても、菊代は浮かない顔のままだ。
「そうは言っても……」
「大丈夫だよ、俺の小遣いで払うんだから」
中学五年生となった伝一郎は現在、寮で生活しながら、十円もの金を小遣いとして与えられていた。
米一升が十五銭。職人の月給が約二十円で有るから、相当な金額である。だからこそ、アイスクリンの六十銭を勿体ないと感じ無い。
「じゃあ、出掛けて来るから」
「いってきあす!」
蝉時雨が降り注ぐ中、伝一郎は半ば千代子に引っ張られる様に、街中へと出掛けて行った。
手を振って二人を見送りながらも、一抹の不安が菊代の心を過る。
──伝衛門に懇願され、伝一郎が本家の嫡子に至って早五年と為る。が、その際交わした約束は、果たして履行されているのだろうか?
人の上に立ち、自分の跡を継いで更なる飛躍を図ってくれる様、優れた経営者と成るべく育ててやると、伝衛門は我が子の未来を熱く語ったが、今を鑑みる限り、想い通りには育って無いようだ。
(お金が、あの子を変えてしまったのか……)
十年前、我が子への虐めを発端に、菊代は伝衛門との関係を絶ち切った。以来、女手一つで母子共々に生きて来た。
家を売り払い、手当てと称して受けていた施しを蓄えた金は 有ったが、それでも、世間知らずの箱入りとして育てられた菊代が、辛酸を舐める様な生活を強いられて来たのは、想像に難く無い。事実、清貧を貫き徹して来たのだから尚更である。
そんな菊代の姿を見て、伝一郎は育ったはずで、だからこそ、学校で必要な物以外に贅沢は口にせず、不満とも思わ無かった。
それが、本家の跡継ぎとなった僅かの間に、金に対しての無頓着さが時折目立つ。
これは、執着しろと言う意味だけで無い。大金でも、必要と為れば使う場合も有る。が、そこはあくまで庶民感覚を携えての事で有って、如何なる場合にも湯水の如く金を使う放蕩三昧は、出来損ないのやる事で、優れた経営者は決して行わ無いと、菊代は確信していた。
(自分以上の存在になって欲しいと言いながら、この現状では……)
しかし、伝一郎の変わり様は別の意味合いを含んでいた。
それは晶子によって齋(もたら)されたので有る。門出の日、人々の面前で子供を売り金を受け取る親逹を見て、金の無い人間が何れ程に醜い存在なのかを見せ付けられた。
持つ者と持たざる者の、歴然たる差も知った。
これは父への細やかな抵抗で有った。持つ者と成った自分が僅かでも金をばら撒けば、それで潤う者も増える訳で、強いては少しでも子供を売る親が減ってくれれば、と言う考えからの行動で有った。
しかし、子の心親知らずで有る。
このままでは先行きが不安だ──そう憂慮した菊代は、伝衛門に一筆認(したた)める。幾ら自分の手から離れたとは言え、思惑通りに事が進んで欲しいとするのが親心で有る。
しかし、この一筆が後々、騒動の火種に為るとは、菊代自身、知る由も無かった。