漆黒の淫靡-1
谷底を下って、もう半日が過ぎた。
初めて参加したサークルの登山、私はべつにアウトドア派でもなければ、ましてや山などに全く興味などなかったのに持ち前の断れない性格が災いしてついには遭難までしてしまった。
遭難といっても単にハイキングコースも同然の登山道でパーティとはぐれただけの事だったが、また持ち前の落ち着きのない性格が災いして、自力で追い付こうとしたのだ。
こういう時はじっと救助を待つに限る。
それは分かっちゃいるけれど、虫もいれば獣だって出てこないとも限らないし蛇などに遭遇した日にゃ私はきっと失神してしまう…
とてもその場に耐えなかったのだ。
不安に苛まれながら、しばらく山道を歩けば谷底に川の音がした。
川は上から下を流れて、やがて海に出る。
海に出る前に必ず町に辿り着くはずだ。
なのに…いつまで下っても樹々に覆われて鬱蒼とした谷底を黒い川が流れているだけなのだった。
時速10キロで歩いたとしてもう数時間は下り続けている…
駅を降りてから2時間も登っていなかったから少なくとも、もう人里が見えても良いはずなのに夏の終わりの青葉に包まれて、まるで緑色の霧がかかったような谷底がいつまでも続く。
そうしているうちに少しずつ西陽が濃くなって、やがては漆黒と鉛色が交差したような夕暮れを迎えた。
「!!!!!!!」
後ろの方で何か叫ぶような声がした。
人の声のような獣の咆哮のような…
私は後者でありませんようにと振り返る事なく沢を下り続けた。
今度は間近に声を聴く。
どうやら人の声のように思えて足を止めた。
「オメサコサラナンタラシナッサ?」
私は知らず知らずに外国まで歩いて来てしまったのか?
日焼けというより、すでに土色に焼けた肌に黒目がちの瞳を持った男が意味不明な言葉で私に話しかけていた。
しかしながら、ここは異様であれ人に会えた事を歓ぶべきだろう。
「あのっ!…町までどのぐらいありますか?」
「ほえっ?…」
男の身長は低く、年齢は見当もつかない。
袖の長い民族衣装のような山吹色の衣を纏い、腰には擦りきれた帯が巻かれていた。
あるいは人でなく、妖怪とか山の精とかそういう類いのお方に遭遇してしまったのだろうか?と私は本気で思った。
「イスサクレダブト、マカナグデ。マグデ、マグデ。」
言葉が全く通じない。
谷底がもうすでに薄紫に包まれてしまっては私に選択の余地はない。
つまり、男は夜になると何かしら危ないから着いて来いと言ってるように私には思えたのだ。
異国であれ、異次元であれ、もうなんでもよかった。
このまま闇に包まれて力尽きるまで川を下り続けるより、この男について行った方が得策である事だけは間違いないと思った。