11-1
いつも通りの朝がやって来ると、花織はベッドから起き出して、ふわあとあくびをした。
夕べ、あの場所からどうやってアパートに帰って来れたのか、記憶がまったくない。
寝ぐせのついた髪に手ぐしを通しながら洗面台まで行き、鏡に映った自分を見て、変顔をしてみる。
「メイク落とすの忘れてる。さいあく」
冴えない睨めっこは早々に切り上げて、洗顔と歯磨きを済ませる。
玄関ドアから新聞を抜き取り、さっそく星座占いをチェックした。
「乙女座のあなた、恋愛が成就しそうな予感?」
まさかね、とため息をつきながらそっぽを向いて、携帯電話をいじりはじめた。
メールだ──。
新着メールのアイコンがあった。小田佑介からだった。
『おはよう。昨日はいろいろ大変だったけど、ちゃんと眠れたか?優子は検査入院でしばらく病院生活になりそうだ。詳しくはS病院で聞いてくれ。あと、夕べ俺が言ったことは忘れてくれ』
花織は携帯電話を胸に抱いて、小田が言ったという台詞を思い出そうとした。
記憶はあったはずなのに、やっぱり思い出せない。
ただ一つ、花織の中で小田の存在が大きくなっていたことだけは、疑いようのない事実だった。
それから数日後、黒城和哉は、高校時代の恩師でもある秋本文子とともに姿を消した。
黒城は彼女と生きていくことを選択し、自分が犯してきた罪から逃げ出そうとした。
けれども、男女の関係にあった二人が、駆け落ち同然で何もかもを捨てて手に入れたものは、先の見えない逃亡生活にほかならない。
小田は、自分の推理が親友を追い込んでしまったことに後悔したが、一つの強姦事件を解決できたことに自己満足もしていた。
黒城もまた、そんな小田に感謝の気持ちを準備していた。
自分が触れてしまった犯罪の匂いを消したかったのか、黒城自身が接触した五人の被害者らに宛てて、あるものを送りつけていた。
『薬』と名のつくものに関しては知識をたくわえていた黒城だからこそ、媚薬にも詳しく、またその逆も知り得たのだ。
黒城が最後に残していったもの、それは『デリシャス・フィア』の副作用を相殺させる内服薬、『エデン』だった。
「薬の名前なんて、誰がつけたっておなじさ。可愛い名前の裏に隠された得体の知れない成分を知っておくことと、使い方さえ間違わなければ、大して害はないってことだ」
いつだか黒城が自慢げに話していたことを花織は思い出す。
お見舞いがてらに、優子のことをからかいに行ってあげるか──。
花織は自宅アパートを出て、駅に向かう道とは違うルートを歩き出す。
やがてバス停の表示板が見えてくると、足取りはいっそう軽やかになる。
鼻歌でも歌いたい気分だった。
モバイルオーディオのイヤホンを取り出して、くすぐったそうに耳につけた。