幼児返りタイム 後編-2
明くる日の朝、海棠一家三人は食卓を囲んでいた。休日だというのに、龍は相変わらず無言で、しかも生気をなくして虚ろな瞳のまま、機嫌悪そうにぼそぼそとトーストをかじっていた。
「龍、おまえ寝てないのか? ゆうべ……」
ケンジが心配そうに訊いたが、龍は何も反応せず、口をただもぐもぐと動かしているだけだった。
ピンポーン。
「なんだ? こんな朝早くから……」
ミカがぶつぶつ言いながら立ち上がり、玄関に向かった。
「おはよう、ミカさん」ドアの外に息を切らして立っていたのは真雪だった。「家に帰らずに直接来ちゃった」
「なんだ、真雪。こんな時間に。そんなに急いで来なくても……」
「龍を待たせちゃってるからね」真雪はにっこり笑った。
ミカは振り向いた。「おーい、龍、まゆ……」
龍はすでに玄関ホールに立っていた。
「ほら、お待ちかねの真雪だぞ、龍」
龍は顔をこわばらせて真雪をじっと見た。「なんで今頃来るんだよ」
「え?」真雪はドアを入ったところで立ちすくんだ。
「なんだ、その言い方は、せっかく急いで来てくれたのに」ミカが強い口調で言った。
「今、来てくれたって、ちっとも嬉しくないよ!」
「りゅ、龍……」真雪は力なく言った。「ご、ごめん。仕事がどうしても、」
「本当に仕事だったのか?」
「え?」ミカは龍の顔を見た。「な、何を言い出すんだ、おまえ……」
龍はさらに声を荒げて言った。「まさか、また誰か他のオトコと、」
ばしっ! ミカの平手が龍の頬を直撃した。「龍っ!」
龍は握りしめた両手の拳を震わせ、真雪を睨み付けていた。
「謝れ! 龍、真雪に謝れ! それに、今言ったことを取り消すんだ!」ミカは龍の胸ぐらを掴んだ。「おまえ、あれほど真雪が辛い思いをして、後悔しておまえに謝り続けて、それをおまえは赦したんじゃなかったのか? どうしてまた蒸し返したりする? また真雪を苦しめるつもりなのか?」
龍は母親の手を振り払い、血が滲む程に唇を噛みしめ真っ赤な顔をして震えながら、言葉をなくして立ちすくんでいる真雪をもう一度睨み付けると、いきなりきびすを返して二階に駆け上がっていった。
「龍! 大人げない態度とるのはやめろっ!」ミカが二階に向かって叫んだ。龍の部屋のドアが乱暴に閉められる音がした。
「ご、ごめん、真雪。龍、どうかしてるんだ。あたしが代わって謝るよ」
「ううん、いいの、ミカさん。全部あたしが悪いんだから。昨夜の約束、すっぽかしたあたしが悪いの」一つため息をついて真雪は続けた。「それに、二十歳の時に過ちを犯して龍を苦しめたのも事実だし……」
「真雪……」
「大丈夫」真雪は力なく笑って、靴を脱いだ。そしてつま先を外に向け直すと、荷物を持って二階への階段に向かった。「心配かけてごめんね。あたしたちの問題だから、ミカさんやケンジおじは気を遣わないで」
そして彼女は龍の部屋を目指した。
――真雪は、専門学校二年目の冬、二十歳になったばかりの頃に、学校の宿泊研修で郊外の水族館に20人ほどの同級生と共に一週間滞在した。その時、研修を仕切る主任の板東という男に食事に誘われ、慣れない酒を飲まされ、ホテルに連れ込まれて、夜を共にしてしまった。
その龍への裏切り行為を激しく後悔した真雪は、研修後、泣きながら龍に謝り続けた。龍は、波立つ気持ちを必死で押さえながら、毎晩のように真雪の身体を抱き、癒し、赦した。
この出来事は、愛し合う二人の心の底に、忘れたくても忘れることのできない傷となって残っていた。