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ひとしずくの排卵
【その他 官能小説】

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十三-2

 工場の煙突が真っ黒な煙をもうもうと吐き出して、鉄を灼いたような紅い夕日がその向こうへ沈んでいく。

 九門和彦と佐々木繁の両人は、しかるべき場所で裁かれ、罪を償う日々に明け暮れることだろう。
 それは紫乃の卵(らん)をもてあそび、関わった人たちの人生を狂わせたことに比べれば、もしかしたら微塵に等しいのかもしれない。

 紳一はそんなことを思いながら、春子とつぐみのあいだで揺れていた。

「僕は春子を愛しているし、これからもずっと大事にしていくつもりだ」

 家の一室で、紳一は春子に辛い言葉をかけようとしていた。

「春子が酷いことをされたのはわかっている。だけど、森咲先生もおなじくらい酷い目に遭って、心も体も傷ついてしまっている」

 春子は、うんと頷く。

「彼女には身寄りがないんだ。だから今夜は僕が彼女のそばにいてあげようと思う。春子には寂しい思いをさせてしまうかもしれない。ほんとうにすまない」

 紳一の手が握り拳をつくる。
 春子は言葉を探していた。

「春子は美智代ちゃんのところにいなさい。彼女だって寂しい思いをしているはずだ」

「大丈夫。私にはお母さんがいるから」

 春子が母親の位牌に目をやる。
 春子なりの精一杯の強がりだった。十六年間の短い人生の中に、紳一がどのくらい棲んでいたのか、あらためて思い知らされた。

 やがて紳一が背を向けると、途端に熱いものが込み上げてきて、父の姿が見えなくなると、たまらず泣きじゃくった。

 一人ぼっちの暗い部屋で明かりもつけずに、和彦の家で聞こえた心の声を思い返してみる。

 おまえは誰を信じて、誰を愛して、誰に愛されたいのだ──。

 春子の中には紳一がいる。
 けれども心のどこかで、紳一が帰って来ないほうへ賭けている自分がいた。



 夕闇が深くなり、夜になった。

「ただいま」

 玄関先で声がした。
 春子は部屋の明かりをつけて、ふらふらと玄関まで出た。
 そこにいたのは間違いなく父だった。

「お父さん、どうして……」

 春子は戸惑い、紳一は苦笑いしている。

「森咲先生に叱られてしまったよ。いちばん大事な人を思いやらずに、ほかの女性に会いに来るなんて、あなたは自惚れがすぎます、ってね」

 気に食わないといった顔をする春子。
 しかしそこにはもう涙がつたっていた。

「帰って来ないほうが良かったか?」

「そうだよ。手ぶらで帰って来るなんて、女の子に対して失礼だよ」

 嬉しいのに悔しい──春子の表情にはそう書いてあった。

「これで許してくれとは言わないが」

 言って紳一がポケットから取り出したのは、硝子の石がついた指輪だった。

「途中で縁日を見ていたら、これが売れ残っていたから、仕方なくだな……」

 照れ隠しで冗談を言いながら、春子の指にそれをはめてやる。
 繊細な指に光が差した。

「おもちゃで騙そうなんて、そうはいかないんだから」

 春子は、まんざらでもない顔で微笑んだ。

「春子がほんとうにお嫁に行きそびれた、そのときには、本物の指輪を受け取ってくれるかい?」

 この台詞を聞くために、自分は今日まで生きてこれたのだ。
 春子は幸せの実感を噛みしめた。

 誰の祝福もいらない。ただ紳一がそばにいてくれれば、ほかには何も望まない。

「あんまり、泣かさないでよ……」

「春子……」

 紳一の手が、春子の下顎に添えられ、上向きのその唇に、契りの口づけが交わされるのだった。


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