十三-2
工場の煙突が真っ黒な煙をもうもうと吐き出して、鉄を灼いたような紅い夕日がその向こうへ沈んでいく。
九門和彦と佐々木繁の両人は、しかるべき場所で裁かれ、罪を償う日々に明け暮れることだろう。
それは紫乃の卵(らん)をもてあそび、関わった人たちの人生を狂わせたことに比べれば、もしかしたら微塵に等しいのかもしれない。
紳一はそんなことを思いながら、春子とつぐみのあいだで揺れていた。
「僕は春子を愛しているし、これからもずっと大事にしていくつもりだ」
家の一室で、紳一は春子に辛い言葉をかけようとしていた。
「春子が酷いことをされたのはわかっている。だけど、森咲先生もおなじくらい酷い目に遭って、心も体も傷ついてしまっている」
春子は、うんと頷く。
「彼女には身寄りがないんだ。だから今夜は僕が彼女のそばにいてあげようと思う。春子には寂しい思いをさせてしまうかもしれない。ほんとうにすまない」
紳一の手が握り拳をつくる。
春子は言葉を探していた。
「春子は美智代ちゃんのところにいなさい。彼女だって寂しい思いをしているはずだ」
「大丈夫。私にはお母さんがいるから」
春子が母親の位牌に目をやる。
春子なりの精一杯の強がりだった。十六年間の短い人生の中に、紳一がどのくらい棲んでいたのか、あらためて思い知らされた。
やがて紳一が背を向けると、途端に熱いものが込み上げてきて、父の姿が見えなくなると、たまらず泣きじゃくった。
一人ぼっちの暗い部屋で明かりもつけずに、和彦の家で聞こえた心の声を思い返してみる。
おまえは誰を信じて、誰を愛して、誰に愛されたいのだ──。
春子の中には紳一がいる。
けれども心のどこかで、紳一が帰って来ないほうへ賭けている自分がいた。
*
夕闇が深くなり、夜になった。
「ただいま」
玄関先で声がした。
春子は部屋の明かりをつけて、ふらふらと玄関まで出た。
そこにいたのは間違いなく父だった。
「お父さん、どうして……」
春子は戸惑い、紳一は苦笑いしている。
「森咲先生に叱られてしまったよ。いちばん大事な人を思いやらずに、ほかの女性に会いに来るなんて、あなたは自惚れがすぎます、ってね」
気に食わないといった顔をする春子。
しかしそこにはもう涙がつたっていた。
「帰って来ないほうが良かったか?」
「そうだよ。手ぶらで帰って来るなんて、女の子に対して失礼だよ」
嬉しいのに悔しい──春子の表情にはそう書いてあった。
「これで許してくれとは言わないが」
言って紳一がポケットから取り出したのは、硝子の石がついた指輪だった。
「途中で縁日を見ていたら、これが売れ残っていたから、仕方なくだな……」
照れ隠しで冗談を言いながら、春子の指にそれをはめてやる。
繊細な指に光が差した。
「おもちゃで騙そうなんて、そうはいかないんだから」
春子は、まんざらでもない顔で微笑んだ。
「春子がほんとうにお嫁に行きそびれた、そのときには、本物の指輪を受け取ってくれるかい?」
この台詞を聞くために、自分は今日まで生きてこれたのだ。
春子は幸せの実感を噛みしめた。
誰の祝福もいらない。ただ紳一がそばにいてくれれば、ほかには何も望まない。
「あんまり、泣かさないでよ……」
「春子……」
紳一の手が、春子の下顎に添えられ、上向きのその唇に、契りの口づけが交わされるのだった。