十-3
「あるとき紫乃さんの妊娠に気づいた和彦くんは、それが自分の子どもだと疑わなかったんだ。無事に臨月を迎えて、可愛らしい女の子が産まれた。二人はその子に、春子と名付けた。胸の内に暗いものを抱えたまま春子を育てていく決心をした紫乃さんだったんだが、和彦くんに対する裏切りがしこりになって、思うような暮らしができなかったらしい。とうとう紫乃さんは和彦くんにほんとうのことを打ち明けて、そのあと二人は離婚したんだ」
言った繁の顎からは、もはや汗だか涙だかわからないものが滴っていた。
「佐々木さん、あんたは紫乃だけでは飽き足らず、未成年の少女にまで淫らな行為をしてしまっているんだ。どうやって償うつもりですか!」
紳一は、一語一句に感情を込めて、繁の改心を願いながら言った。
「だからそれが違うんだよ。わしは紳一くんにそのことを言わねばならん」
「言い訳はよしてください」
「言い訳なんか言わん。あの女学生を犯したのは、和彦くんなんだ。この話、どう思うかね?」
紳一は、首すじに麻酔針を打たれたような鋭い感覚をおぼえた。
「どうって、まさか……」
「和彦くん本人から聞いたことなんだよ。わしが紫乃さんにしたことを許す代わりに、自分のしたことを誰にも言うなと言われた。しかしねえ、春子や紳一くんのことを思うたら、黙っていられなくてね」
繁は情けない顔をして、頭を抱えた。
「もっとえらいことが起きる。わしのせいで和彦くんの心は病んでしまった。誰かが救ってやらんと、また誰かが犯されてしまう」
繁はそう言うが、和彦のことがどうにも気に入らない紳一は、話のぜんぶを信用できないでいる。
「そういえば、春子はどうした。まさか祭りに繰り出しとるんか?」
繁は唾を飛ばして紳一に訊いた。
「友達とお祭りに行く約束をしていたので、さっき出かけて行きました」
「それはいかん。和彦くんは春子をどうにかしようとしている。血がつながっていないとわかっとるから、なおさら危険だ!」
紳一は青ざめた。紫乃を寝取られた上に、子どもまで産ませた繁に仕打ちをするためなら、彼は春子をも辱めるというのだろうか。
厄介なことになった、と紳一が舌打ちすると、家のおもてで誰かが玉砂利を踏む音が聞こえた。
あらわれたのは森咲つぐみだった。
紳一と一緒に祭りに行こうと思いを秘めて、深海家を訪れたのだ。
けれども彼女は少し浮かない顔をして、「ここに来る途中、男の人と一緒に車に乗っている春子ちゃんを見かけました」といきなり言ってきた。
嫌な予感がする、と繁が目を鋭くすると、紳一は靴を履くのも面倒だといったふうに家を飛び出して、やがてつぐみの目でも追えなくなってしまった。
森咲先生は九門さんの顔を知らないのだ。
春子といたのが彼だという可能性は十分にある──。
紳一は脇目も振らずに走った。