アールネの少年 2-1
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目を覚ましたとき、エイは少し驚いた。自分が生きており、あまつさえ、身体に何の痛みもないという事実にだ。
骨がくだけ臓腑のつぶれる断末魔を、彼は確かに味わった。たとえ生きながらえたとしても瀕死の状態のはずだ。断末魔が大げさにしても、少なくとも腕と足は折れた。間違いなく。
間違いなく。
そう、考えてから彼は可笑しくなって小さく笑った。
意識を失う前に見た……体感した『力』を覚えている。目に映らない、純粋な圧力そのものだった。彼をつかみ、捕捉し、押しつぶそうとする、それをなし得る強力な『力』。そんな存在を彼は知らない。
あるとしたら魔法使いが使う『魔法』の力か、それに類似するという魔族の持つ心的念動能力だ。
だが、どちらも手を触れずに物体を動かす力というふれこみではあるが、何かを破壊するほどの暴力的な威力はないのだというのが一般の認識だった。
そして、痛めつけられた形跡の感じられないこの身体。
結局そんな力は存在せず、彼が体感したのは夢か、何か薬物の作用による幻覚だったのかもしれない。
ロンダ―ンの王家の周辺には不思議な超常現象の伝説がいくつもまつわっている。現実と見まがう幻覚を引き起こす技をロンダ―ンの王族が受け継いでいて、それがおとぎ話の真相だとしたら、今の状態にも説明がつく。彼ら一流の詐術が、きっと現代にも伝わっているのだ。
そう、自分の理解の及ぶ範囲まで疑問を引き下ろして、エイはようやく安定した。
次に彼は、見覚えのない天井を見つめて、ここがどこかを考えはじめた。
むき出しの石組みの、湿度の高い、寒々とした箱型の一室。
これは牢獄だな、と彼はのんびり思った。脱出してきた黒森砦の部隊から内部の構造を聞いている。確か地下一階と二階にいくつか獄舎がしつらえられていたはずだ。まず間違いなく自分はそこに閉じ込められているのだろう。
だが、窓のない地下にしては明るい。薄暗いのは薄暗いが、姿かたちがはっきり見てとれるやわらかな明りが室内には満ちている。
彼の目は、知らず光源をさがしてぐるりと動いた。
「!」
エイはぎくりと身をこわばらせた。視界のすみに、人の影がかすめたのだ。
まるで気配を感じなかった。
普段の彼なら聞き洩らすはずのない、身じろぐ生命の気配、息づかいさえも。
彼を見下ろして佇んでいたのは、一人の少年だった。
十三、四歳といったところだろうか。まるきり子供というわけではないが、薄い体格や面持ちから見てエイよりは明らかに幼い。
エレブ公子と同じくらい、と彼は思った。
すらりと痩せた身体に、かっちりと黒っぽい軍服を着込んでいる。
短い黒髪と赤みのない真っ白い肌、切れ長の目と細い眉の繊細な造形は、陶器の人形のようでどこか作り物めいていた。
瞳が、見たこともないほどくっきりと、黒い。
その傲岸な眼差しが、なぜか彼の記憶を刺激した。
赤と黒の入り混じった、不思議な鋭い目。
少年の双眸は黒いのに、なぜそう感じるのだろうと彼は内心首をかしげた。
少年はふと彼から目をそらすと踵を返して扉へと向かった。無感情な、虫けらを観察する冷酷な視線から逃れて、エイは知らずほっと息をついた。
彼は扉を開いて出ていくことはせず、ただ外へ向かって声をかけた。
「王子に伝えろ。囚人が目を覚ました」
中性めいた見かけに反して、声はずいぶん低かった。
声変わりしたてらしく発声が多少苦しげではあったが、耳障りなほどではない。むしろ静かな、まったくとがったところのない心地よい低音だ。
だがその、響き自体は落ち着いた優しげな声音が、傲岸なしゃべり方によく合っている。というより、そのために余計に冷徹にも聞こえた。
「わかりました。アハト殿」
鉄格子のついた扉の向こう側で、返事とともに足音が遠ざかっていく。
「アハト……」
その名に聞き覚えがあって、エイはどこで聞いたのかと思い巡らせた。
圧倒的な何かに押しつぶされて、意識を失う寸前の記憶がよみがえる。
声を発したエイに、少年がゆっくりと振り返った。
「君はあの、鳥? シェシウグル王子に操られていた?」
口にしてしまってから、馬鹿げた質問だと彼は自嘲の笑みを浮かべた。目の前にいる少年は間違いなく人間だ。
だいたい、あの鳥だって幻覚に違いなかった。エレヴ公子の言葉から生まれた、奇怪なイメージの産物。
おかしなことを訊いて、気がふれたとでも思われたかもしれない。それはそれで好都合ではある、そう、彼はちらりと考えたのだが……
「別に操られていませんが」
少年は驚く様子もなく、不機嫌にそう返した。
否定ではない。彼はその事実に、逆に驚いて目を丸くした。