H-1
空一面、鈍色の雲──。
下界は湿気を多く含んだ生ぬるい空気が滞留していて、道行く人の誰もが、不快そうな面持ちであった。
梅雨の到来である。人間の営みに水は欠かせない物なので、降雨も致し方ないが、これから一月以上も、この様な天気が続くのだと考えると、鬱陶しさが先立ってしまうのも人情である。
「やや!降って来やがった」
そんな梅雨空の中を、鞄を傘代わりに翳して走る者があった。名を河野光太郎、雛子の兄である。
雛子と光太郎は六つ年が離れていて、既に実家から少し離れた場所に家を構え、妻と二歳になる娘と住んでいる。
雛子同様、教育者としての父親の支持者だが、彼は妹と違って大局を見ていた。
すなわち文部省職員として、教育全般に関わろうと考えたのである。
──これからは、新しい価値観を教えねばならん。
終戦直後、団欒の中で聞かされた父親の言葉を、金科玉条の如く胸に刻み付けて、新しい学校教育の在り方を模索し続けていた。
「ただいま!」
光太郎は古い民家が建ち並ぶ路地に入り込むと、一軒の家に飛び込んだ。
結婚する五年前まで暮らしていた実家である。
間口五軒ほどの小さな木造の二階屋。手前に十坪余りの庭があり、植えられた琵琶の木は、色鮮やかな実を付けていた。
他にも梅や夏みかん、グミの木が狭い庭の大部分を占領していて、実は今でも、近所の子供逹に分け与えられていた。
「あら?珍しいわね」
玄関口で濡れた背広を払う光太郎を、出迎えに現れたのは母親の鶴子である。
「親父は?帰ってる」
「茶の間にいるけど。どうしたの?」
光太郎は問いかけに答えず、勝手知ったるわが家に上がり込むと、明らかに不満気な足取りで奥へと向かった。
「お父さん!」
開けた障子の向こうには、父親の三朗が、新聞を読んででいた。
細面の顔にセルロースの眼鏡。白髪混じりの髪を後ろに梳かした様は、一見すると品の良い老紳士の様だが、その実、中身は“明治生まれの頑固親父”そのもので、光太郎は三十になった今でも面と向かって「親父」と呼んだ事が無い。
三朗は、新聞に目を落としたまま、こう切り出した。
「光太郎。先ず、千鶴に挨拶して来い」
「あ、ああ……」
光太郎は一瞬、「しまった」と苦い顔になった。が、すぐに廊下を後返り、隣部屋の座敷へと入った。
床の間に設えた小さな茶壇の仏壇。位牌と共に、女の子の写真が飾られていた。
光太郎と雛子の間にいた千鶴である。生きていればニ十七歳。夫と子に囲まれていた事だろうが、二歳の冬、流感を患って短い生涯を閉じた。
(千鶴……雛子がとんでもない事を頼んで来たぞ)
光太郎は、千鶴に近況を報告し終わると、再び茶の間に向かった。
今度は鶴子も待っていた。