H-3
「尤もらしい言い分だけど、本心は雛子に会いたいだけなのよ」
「な、何を馬鹿な事を言っとるんだ!お前は」
鶴子の一言に、三朗の顔は頬どころか耳まで赤くなった。
「あら。郵便屋さんが家の前を通る度に郵便受けを覗きに行ってるのを、私が知らないと思ってたんですか?」
「え?本当に」
知られたくない一面まで暴露され、三朗は居ても立ってもいられない。「とにかく明日、出掛けからな!」と言い放つと、茶の間から出て行ってしまった。
「だ、大丈夫なのか?怒ってるみたいだけど」
光太郎は、三朗の消えた方を心配気に見詰めるが、鶴子は気にした様子も無い。
「放っときなさい。どうせ、書斎に逃げたんだから」
「しかし意外だったよ。雛子が赴任する時も、大した話も無かった親父が……」
「口には出さないけど、末っ子で女の子でしょ。心配で心配で仕方ないのよ」
「ふーん」
「特に千鶴が亡くなってからは……ね」
四半世紀という時間が経過しようが、あの日の記憶は決して色褪せる事無く、今も夫婦にとっては抉られた傷口のように、鮮やかに残っている。
「じゃあ、俺帰るから」
光太郎は立ち上がった。既に雛子に対する怒りは失せていた。
「晩ご飯食べてけば?町子さんには、私から連絡してあげるから」
町子とは、光太郎の細君の名前である。
「せっかくだけど遠慮しとくよ。娘のあかりをを風呂に入れてやるのは、俺の役目なんだ」
「そう。お父さん、残念がるわ」
「明後日は日曜日だから。町子とあかりを連れて、件の話を訊きに伺うよ」
玄関で靴を履くと、雨は未だ降っていた。
「傘、無いんでしょう。持って行きなさい」
鶴子に促されるまま光太郎は、玄関隅の傘立てから蝙蝠傘を取り出した。
「じゃあ、また……」
「気を付けて帰るのよ」
「ああ」
光太郎は、背を向けたまま鶴子に手を振り、再び雨の中へと出て行った。
鶴子は庭先まで送り出し、遠ざかる息子の背中を暫く眺めていた。