H-10
「お父さん、起きてる?」
眠れない事に段々と苛立ちを覚え出した三朗に、雛子の声が茶の間から聞こえた。
「どうしたんだ?」
「目が冴えちゃって。お父さんは?」
「田舎の夜は知ってるはずなのに、中々、眠れんもんだな」
「だったらお話ししましょうか?これも有るから」
雛子が手にしていたのは、湯飲み茶碗と半分程入った日本酒の一升瓶だった。
「お前、酒を呑むようになったのか……」
「こっちで飲まされてね。それからは、ちょびっとだけ」
春先まで全くの下戸だったのが、たった二ヶ月足らずで酒を覚えたとは、俄に信じられない。
しかし、
「じゃあ、久しぶりの再会を祝して」
「ああ、乾杯」
雛子が湯飲みに口を付けて、ゆっくりと傾けるその仕種は、正に酒呑みのそれだった。
「はあ……美味しい」
「まさかお前と、酒を酌み交わす日が訪れるとはな」
「なあに?意味深な言い回しね」
「儂は感心しておるんだ。お前はある意味、光太郎より“視野が狭かった”からな」
「ハハ……あの頃は随分と、お父さんと論戦したっけ」
雛子は自分の意見に忠実で、“清濁を呑み込む”という事を嫌悪する傾向があった。
「それが此処に来たおかげで、酒を酌み交わす友が出来たとは……」
三朗の言葉に、雛子は思わず吹き出しそうになる。
「変な勘繰りはよしてよ。林田先生とは担任と副担任ってだけで……」
「待て、その人は林田と言うのか?」
柔和な三朗の顔が、微妙に変化した。
「そうよ。林田純一郎」
「その先生の背格好は?お前と一緒に此処に赴任したのか?」
「赴任したのは一月程前からで、年は私より四つ上かな。背は百七十五センチ位で痩せ柄、顔は青瓢箪みたいかな」
雛子の話を聞いた三朗は、腕組みして圧し黙ってしまった。
「あの、父さん?」
「……」
「父さんったら!」
「あ、ああ……」
「どうしちゃったの?急に黙ってしまって」
「ああ、何だか眠くなっちまったな」
三朗は湯飲みに残った酒を一気に呷ると、また布団へと潜り込んだ。
「なんだ、つまんないの」
呑み仲間が急に居なくなって寂しいのか、雛子は少し拗ねた様な素振り見せていたが、暫くすると諦めて、茶の間へと戻って行った。
(林田……純一郎か……)
三朗は布団の中で目を開け、天井を見詰める。その面持ちは何故か、暗かった。