三-1
紳一は自分の横に森咲つぐみを並ばせて、家に向かう道を歩いていた。
「ほんとうに、ご迷惑にならないですか?」
つぐみは身なりを気にしながら、遠慮がちに言った。
「僕の部屋に置いておいても肥やしになるだけだし、森咲先生に貰われるなら僕も嬉しいです」
先の古本屋で二人して小説の話をしていたついでに、紳一の読み終えた本をつぐみに譲るという流れになり、彼女は深海家に招かれることになったのだ。
陽はすっかり西に傾いていたが、家の庭先に春子の自転車は見当たらなかった。
「娘はまだ帰っていないようですけど、どうぞ上がってください」
紳一は照れ臭そうにつぐみのことを促した。
つぐみは脱いだ靴を丁寧に揃えて、「おじゃまします」と照れ笑いした。
この家には彼と自分の二人しかいないのだ。そう思うと余計に体が熱くなるつぐみだった。
居心地の悪そうな表情で正座したまま、つぐみは部屋の様子をぐるりと見まわした。
そこへ紳一があらわれ、冷たいお茶を出してくれた。つぐみは礼を言った。
「何だか家庭訪問みたいですね」と紳一はお茶に口をつけた。
「そうですね。私、春子さんの担任でもないのに家に上がってしまって」
「そんなことは気にしないでください。担任じゃなくても、春子の先生であることに変わりない」
「そうですね……」
紳一と二人きりだということを意識しすぎて、つぐみは間がもたないでいる。目を合わせることもできない。
「僕、好きなんです」
紳一が唐突にそう言うもんだから、つぐみは口をゆるめたまま動けなくなった。
ソーダ水の炭酸が喉元ではじけるみたいに、しくしくと味覚を刺激していた。
「いつから……ですか?」とつぐみは訊いた。
「ずっと前からです」
「そんなことを急に言われても……、どう応えたらいいのか……」
「森咲先生はいつから好きなんですか?小説」
「え……と、あの……。小説の話でしたよね。それだったら、小学生の頃からだったと思います」
何とか話を合わせてみたが、またしても勘違いをしてしまった自分が惨めに思えて、つぐみは赤面した。
彼女の様子に気づいた紳一は、「暑くなってきましたね。少し換気をしましょうか」と陽のあたらないほうの窓を開けた。
彼の気遣いに下心などはまったく見えず、つぐみの心は強く惹かれていくのだった。
その紳一はというと、一旦奥の部屋に引っ込んで、やがて両手いっぱいに本を抱えて戻ってきた。
「森咲先生に気に入ってもらえるかどうかわからないけど」
「こんなに読まれたんですか?」
「奥の部屋にはまだ山ほどありますよ」
紳一はそのうちの一冊を手に取り、「これなんかどうですか?」とつぐみに勧めた。
そして表紙をめくるつぐみの横に座りなおすと、肩が触れる距離まで身を寄せた。
「この人の書く推理小説がなかなかのもんなんです」
紳一の目は少年を取り戻しているようだった。
女心というものを知ってか知らずか、紳一の言動すべてが、つぐみの胸の隙間に風を送り込んでくるのだった。
彼と一緒にいると息苦しくなる。
それでもずっと一緒にいたい。
帰りたくない。
このまま彼の胸で甘えたいのに、嫌われるのが怖くてできない──。
そんなふうに純情を描いているうちに、つぐみはのぼせてしまった。ふっと目の前が暗くなったのだ。
「大丈夫ですか?」
ふらついたつぐみの上体は、紳一の胸にしっかりと受け止められていた。
「すみません。大丈夫です……」
紳一に抱かれる恰好になったつぐみは、すっかり白昼夢の中にいた。
密かに思いを寄せていた人に、私は今こうやって抱かれている。
嫌われてもいいから、今だけこうしていさせて欲しい。
たとえ気持ちが通わなくても、彼と過ごした今日という日を張りあいに、この先も一人で生きていける──。
「深海さん……、好きです……」
消え入る声でつぐみは言った。
紳一はどう応えて良いのかわからず、言葉を探すことしかできなかった。
「いいんです、応えてもらえなくても。私が勝手に好きになったんですから」
紳一は自問していた。
こんなにも素敵な女性に、ここまで言わせておいて、彼女にかけてやれる気の利いた言葉はないのか。
恥をかかせちゃだめだ。
沈黙がいちばん卑怯なやり方だということも知っている。
だったら──。
そうしてやっと紳一の口が開いた。
「森咲先生。僕はあなたが」
言いかけたところで電話が鳴った。
二人を引き裂くような電話の音で共に我に返ると、気まずい素振りで紳一が受話器を取る。
「深海です」
電話の相手は桜園善次だった。
一人の少女が何者かによって淫らな行為をさせられるという事件が起きた、と紳一は善次から聞かされる。
それは背中を冷たくさせる言葉だった。
「どうしてそんなことが……」
このことをすぐにつぐみへ告げると、紳一は春子を探すために家を飛び出し、つぐみは緊急の職員会議のために学校へ向かった。