二-1
翌朝、春子が起き出してくる頃には家に紳一の姿はなかった。
日めくりカレンダーの赤い日付を見て、今日が祝日だということをようやく思い出した。
いけない。
美智代との約束があったんだ──。
あわただしく支度を整えて庭先に出ると、自転車のスタンドを蹴るなりサドルに跨ろうとした。
何だろう、これ──。
ふとして春子の目にとまるものがあった。サドルの表面が白く汚れている。
かたつむりの這った痕が乾いて、白い粉を吹いたようにも見える。
梅雨の時季が近づいているので、かたつむりだってそろそろ活発に活動をはじめることだろう。
春子はタオルのはじに水をふくませ、その白い痕跡を拭ってみる。
かすかなぬめりを伴って汚れは消えた。
そんな少女の行動を盗み見る視線が、またしても危ない眼光を放っていた。夕べの男である。
生い茂る葉っぱの隙間から春子をじいっと見つめ、興奮気味に生唾を呑み込む。
「そこにこびりついていたものが何なのか、あとで教えてあげよう。大人の女に目覚めるための儀式だ。俺に見初められるとは、春ちゃんも運がいい」
歪んだ思いを腹にため込み、念仏を唱えるように男は呟いた。
視線の先では、春子がサドルを手で払っている。
そしてスカートを穿いたその下半身を、何の疑いもなくそこにあずけた。
男は歯並びの悪い前歯を剥き出しにして、引きつる声で笑う。
「それでいい。俺の精液を好きなだけ股で味わえばいいんだ」
こぎ出した春子の姿が見えなくなるまで、男は瞬きをしようとはしなかった。
春子が去ったあとの庭で、抜け落ちた鳥の羽根が風に舞っていた。
田植えがはじまったばかりの田園の中を、春子の自転車は颯爽と駆け抜けていく。
*
おなじくして、くたびれた看板の古本屋に紳一の姿があった。
しきりに顎を撫でながら、買いもしない本を読み耽っている。
「おはようございます」
そんなふうに声をかけてきたのは、春子の通う女学校の英語教師、森咲つぐみだった。
「深海(ふかみ)春子さんのお父さん」
「ああ、先生どうも。おはようございます」
紳一が会釈すると、つぐみもしとやかな笑顔を返した。
声をかけたのはいいが、何を話せばよいのかわからず、つぐみは困り果てていた。
「先生も本がお好きなんですか?」
彼女の心情を察して、気をきかせた紳一は気さくに喋った。
「はい。短編小説なんかを、よく」
「そうでしたか。僕も小説が好きで、よくここで立ち読みさせてもらっているんです」
「それじゃあ、春子さんのお父さんは……」
「その呼び方は、よしてください。名前でいいです」
「あのう、私、深海さんの名前を知らないんですけれど」
面白いことを言う人だと紳一は思った。
「いえいえ。下の名前ではなくてですね……」
「ああ、そう、そうですよね。何だか私、すみません……」
つぐみは恥ずかしくなり、顔も耳も真っ赤にしてはにかんだ。
「森咲先生は可愛らしい人だ」
「え?」
紳一の無責任なこの一言が、つぐみの心を引き寄せてしまった。
二十六歳にもなるというのに、生徒の保護者から「可愛らしい」と言われたことが、つぐみにとっては新鮮だった。
どういうつもりでそんなことを言ったのだろう、と彼女は紳一の顔を見上げた。
背が高く、何より眼差しに芯が通っていた。
しだいに会話がはずんでいくうちに、二人の距離が縮まった気がして、つぐみはすっかり舞い上がっていた。