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ひとしずくの排卵
【その他 官能小説】

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-1

 翌朝、春子が起き出してくる頃には家に紳一の姿はなかった。
 日めくりカレンダーの赤い日付を見て、今日が祝日だということをようやく思い出した。

いけない。
美智代との約束があったんだ──。

 あわただしく支度を整えて庭先に出ると、自転車のスタンドを蹴るなりサドルに跨ろうとした。

何だろう、これ──。

 ふとして春子の目にとまるものがあった。サドルの表面が白く汚れている。
 かたつむりの這った痕が乾いて、白い粉を吹いたようにも見える。
 梅雨の時季が近づいているので、かたつむりだってそろそろ活発に活動をはじめることだろう。

 春子はタオルのはじに水をふくませ、その白い痕跡を拭ってみる。
 かすかなぬめりを伴って汚れは消えた。

 そんな少女の行動を盗み見る視線が、またしても危ない眼光を放っていた。夕べの男である。
 生い茂る葉っぱの隙間から春子をじいっと見つめ、興奮気味に生唾を呑み込む。

「そこにこびりついていたものが何なのか、あとで教えてあげよう。大人の女に目覚めるための儀式だ。俺に見初められるとは、春ちゃんも運がいい」

 歪んだ思いを腹にため込み、念仏を唱えるように男は呟いた。
 視線の先では、春子がサドルを手で払っている。
 そしてスカートを穿いたその下半身を、何の疑いもなくそこにあずけた。
 男は歯並びの悪い前歯を剥き出しにして、引きつる声で笑う。

「それでいい。俺の精液を好きなだけ股で味わえばいいんだ」

 こぎ出した春子の姿が見えなくなるまで、男は瞬きをしようとはしなかった。
 春子が去ったあとの庭で、抜け落ちた鳥の羽根が風に舞っていた。

 田植えがはじまったばかりの田園の中を、春子の自転車は颯爽と駆け抜けていく。



 おなじくして、くたびれた看板の古本屋に紳一の姿があった。
 しきりに顎を撫でながら、買いもしない本を読み耽っている。

「おはようございます」

 そんなふうに声をかけてきたのは、春子の通う女学校の英語教師、森咲つぐみだった。

「深海(ふかみ)春子さんのお父さん」

「ああ、先生どうも。おはようございます」

 紳一が会釈すると、つぐみもしとやかな笑顔を返した。
 声をかけたのはいいが、何を話せばよいのかわからず、つぐみは困り果てていた。

「先生も本がお好きなんですか?」

 彼女の心情を察して、気をきかせた紳一は気さくに喋った。

「はい。短編小説なんかを、よく」

「そうでしたか。僕も小説が好きで、よくここで立ち読みさせてもらっているんです」

「それじゃあ、春子さんのお父さんは……」

「その呼び方は、よしてください。名前でいいです」

「あのう、私、深海さんの名前を知らないんですけれど」

 面白いことを言う人だと紳一は思った。

「いえいえ。下の名前ではなくてですね……」

「ああ、そう、そうですよね。何だか私、すみません……」

 つぐみは恥ずかしくなり、顔も耳も真っ赤にしてはにかんだ。

「森咲先生は可愛らしい人だ」

「え?」

 紳一の無責任なこの一言が、つぐみの心を引き寄せてしまった。
 二十六歳にもなるというのに、生徒の保護者から「可愛らしい」と言われたことが、つぐみにとっては新鮮だった。

 どういうつもりでそんなことを言ったのだろう、と彼女は紳一の顔を見上げた。
 背が高く、何より眼差しに芯が通っていた。

 しだいに会話がはずんでいくうちに、二人の距離が縮まった気がして、つぐみはすっかり舞い上がっていた。


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