一-3
午後六時ともなれば夕闇が訪れる季節である。
「ただいま」
春子の父、紳一(しんいち)が帰宅した。
「お帰りなさい。夕飯はもうできているから」
「ああ。先に風呂に入るから、沸かしてくれ」
くたびれた作業着のまま畳に寝転がり、紳一は唸るような息をついた。
「だめだよ、お父さん。服はきちんと着替えてね」
「ごめんごめん。春子も母親の口に似てきたな」
春子はえくぼをつくって微笑んだ。
紳一は思う。春子が母親に似てきたのは口だけではない。
声や表情もそうだが、体つきに丸みができる年頃にもなれば、『女』の部分を感じて戸惑うときがある。
しかしそれはしぜんな感情であった。紳一と春子は血のつながらない親子なのだ。
春子の母親は離婚を経験しており、その後、一人娘の春子を連れて紳一と再婚した。
その彼女もわずか数年後には家族を遺して他界するのだが、紳一と春子は互いを支えとして暮らすうちに、深い絆で結ばれていることに気づきはじめる。
春子は紳一に惚れていた。父と娘ではなく、それは男と女のあいだに生まれる感情だった。
紳一のことを思うと、春子の胸に甘酸っぱい気持ちが広がるようになった。
父も自分とおなじ気持ちでいるだろうかと、顔を合わせるたびに思う。
その日の食卓には筑前煮が並んだ。
「うん。母さんの味だな」
紳一が頬をふくらませて言うと、春子の表情が明るく輝いた。
まだ小さい頃、母親の背中で童謡を聞きながら、鍋の中の筑前煮が煮立っていくのを面白がって見ていた記憶が春子にはある。
「これならどこへ嫁に出しても恥ずかしくないな」
「私はまだお嫁に行かないよ。お父さんが再婚するのを見届けたら、そのあとに結婚するつもりだから」
「僕はもう結婚はよしておくよ。もう四十二だしな」
「まだ四十二だよ。そんなこと言って私がお嫁に行きそびれたら、お父さんがもらってよね?」
本音に冗談を被せて言ってはみたものの、春子は内心とても不安だった。
「いいよ。そのときは僕が春子をもらってあげるよ」
春子は動揺した。嬉しさで胸が詰まりそうになっている。
そんなことを訊いた自分も悪いと思った。
父の口から出た言葉が本心ではなくても、体の奥から込み上げてくる感情を抑えきれそうにない。
春子は涙ぐんだ。
「どうした?」
「ううん、何でもない。お母さんのことを思い出しただけだから」
気まずい笑顔でごまかしながらも、紳一との夢物語が覚めることはなかった。
*
その夜はなかなか寝入ることができず、春子は何度も寝返りをしながら、紳一の言葉を思い起こしていた。
「僕が春子をもらってあげるよ」
紳一にとっては何気ない一言だったのだろうが、春子はみぞおちのあたりを熱くさせていた。
でも、と春子はいつもと違う体の変化に気づく。下腹部の内側からじわっと染み出してくるような、尿意に似たものを感じた。
月経の気持ち悪さとはまるで違うのだ。
理由を求めて考えを巡らせていると、ますます目が冴えて眠れない。
不潔──。
父親に対して好意を抱くなんて、自分は不潔な娘だと思った。
たまたま好きになった人が父親だったのか、それとも血縁のない父親だから好きになったのか、どちらにしても自分は父親に恋をしている。母親とおなじ人を好きになっている。
こんなに苦しい思いをするのなら、好きにならなければよかったのだ。
物思い、ほそぼそと枕を濡らしているうちに、春子はいつの間にか布団に染み込むように眠っていた。