序章-1
「さあ、おいで」
女の子は、その小さな両手をいっぱいに広げて父親の腰元に縋り付くと、影に隠れるようにして覗き見る。見つめる先には、真新しい肌着に包まれた赤ん坊が、柵に囲われた寝床の中で寝息を立てていた。
「うわあ……」
忽ちに、女の子の目が好奇の色に変わり、父親の影から飛び出した。もっと近寄って見たいという欲求のまま、柵にぴったり顔をくっ付ける。
その愛くるしい瞳を人一倍輝かせ、赤ん坊を見つめる娘の姿に、若い父親の表情は柔和になった。
「今日から、お前も“お姉ちゃん”だよ」
「おねーたん?」
初めて耳にした単語は、女の子の顔に、不可解という表情を浮かび挙がらせた。
「そうか。まだ解らないよな」
いくらなんでも、ニ歳の子に赤ん坊との関係を理解させるのは少々無理があったようだ。
そう感じた父親は、娘の視線に合わせようとしゃがみ込む。
「千代子は、赤ん坊が好きか?」
千代子と呼ばれた娘は、父親の問いかけに弾けるような笑顔を向けた。
「うん!しゅき」
「じゃあ、この子の面倒みるか?」
「めんどー?」
「一緒に遊びたいかって事だ」
「うん!あしょぶ」
「そうか、そうか!千代子は偉いな」
「ちーちゃん、えらい?」
「ああ。偉いぞ」
あどけない受け答えが愛らしく映る。千代子のおかっぱ頭を優しく撫でる父親の眼は、この上ない慈愛に溢れていた。
「この子はな、幸一という名前なんだ」
「こーいち?」
「そうだ。幸一だ」
名前を教えられた千代子は、改めて柵に近寄ると、赤ん坊にそっと呟いた。
「こんにちは、こーいち」
千代子と幸一が、姉弟として出逢った日。
元号が明治から大正に変わった七月三十日は、夕方から驟雨(しゅうう)に見舞われていた。