序章-5
(中学生……せめて、この子の心が真実を受け止められる年齢になるまでは)
伝一郎は、その後も何度か母親に自身の境遇について訊ねるが、その度に菊代は物悲しい顔をするだけで、決して答えようとはしなかった。
しばらくすると伝一郎は菊代に訊くのを辞めた。幼いながらも、母を悲しませるのは悪い事だと思えたのだ。
だが、行き場のない悔しさは少しずつ鬱積して行き、“父親への憎しみ”へと昇華していった。
それからも、度々、泣かされて帰って来るわが子を、菊代は叱りもせず優しく迎え入れた。
普通なら、叱ったり励ましたりして気を強く持たせるのだろうが、息子への虐めは、「境遇を作りだした自分の責任」と感じてしまい、強く言うことが出来なかった。
そうして、伝一郎への虐めが問題となって三年ほど経ったある日。
「母さま……」
伝一郎と菊代は、小雪舞う冬曇りの中、自宅の前に立っていた。
「よく見ておきなさい。これが見納めだから」
菊代はそう言うと、住み馴れたわが家に目をやった。哀しみを堪えるような横顔。それを見た伝一郎は奥歯を噛んだ。
「何処かに行くの?」
「そう。ずっと遠いところ」
「どうして?」
菊代は答えない。
「さあ、行きましょう」
母子は、驢馬(ロバ)の引く、家財道具一式を積んだ力車の片隅に腰を降ろした。
馬子の合図で驢馬が歩みを進める。ゆっくりとした歩調と共に遠ざかるわが家を、伝一郎はずっと見つめていた。
菊代は、一向に収まらぬわが子への虐めを憂慮し、伝衛門に与えられた家を屋移りする事を決意した。
後、一年余りで小学校を卒業し、その翌春には中学への進学が待っている。女学校出身の菊代には、中学校は粗野な印象が強く、今の伝一郎では更に酷い虐めを受けやしまいかと危惧した。
そこで環境を変えてやれば、素の明るい性格を取り戻せるのではと、考えたのだ。
そのためには、伝衛門との“妾”という関係を断ち切る必要がある。
庇護を受けている間は何処に屋移りしようとも、何れ周りに事情が知れてしまう。
(わたしが働けば、伝一郎が虐められる理由は無くなる)
菊代は、これからの自分逹にとって何が大切なのかを熟慮し、強い意志をもって断行したである。
「さあ。今日から、ここがわが家ですよ」
「此処が……わが家」
丸ニ日をかけて移った場所は、山二つ越えた町外れにある小さな一軒家だった。
板作りの垣根と石の門柱で囲われた家は、今まで住んでいた屋敷と比べて半分程の広さしかない。それでも菊代の胸中は「此処でやり直すんだ」という強い希望に燃えていた。
菊代は近所への挨拶回りを終えると、早速、職を求めて町の中心部へと出かけて行き、周旋屋で仕立ての仕事を紹介してもらった。
彼女は一もニもなく引き受けた。裁縫は彼女が得意とする物の一つであり、尚且つ、家での作業の為、わが子に寂しい思いをさせないで済む利点も有る。
こうして、新天地での新たな生活が始まった。