序章-14
「母さま、只今帰りました」
息を弾ませて玄関の扉を開くと、奥から食欲をそそる匂いが漂っていた。
「お帰りなさい」
菊代が笑顔で出迎えた。一連の出来事は、伝一郎に疑念を抱かせる。
厳しく接すると宣言されてから、笑顔も絶えていた。それが今日に限って、以前に戻った様な立ち振る舞い。
「暑かったでしょう、先に汗を流して来なさい」
「で、でも水汲みが……」
「それはいいから。食事の支度も出来てるのよ」
余りの上機嫌ぶりが逆に恐ろしい。何か裏があるのではと、疑いたくなる。
「じ、じゃあ先にお風呂に」
「着替えを用意しときますね」
かいがいしく尽くしてくる菊代の姿を、伝一郎は戸惑いながらも喜んでいた。
──以前のような振る舞いを母親の方が見せて来た。これは取りも直さず、自分を認めて関係を戻そうとしてくれているのではないか。
ここ二週間余り、これ以上の関係悪化は避けたい一心で、言われるまま家事をこなした事が、好結果を呼び込んだのだ。
「ほら、これもお食べなさい」
夕食の時、菊代は自分の焼き魚をわが子に与えた。
「でも……これ母さまのおかずじゃ」
「遠慮せずお食べなさい。私はあまり空いてないから」
「じゃあ」
「沢山食べて大きくならなくちゃ。来年、中学生なのですから」
「うん」
促された伝一郎は、ようやく箸を進め出した。そんなわが子の様を、菊代は優しい笑顔を湛えて見つめている。
その瞳は慈愛だけの物では無く、ある種の感情を秘めていた。
「くっ……んああ!」
勉強を終えた伝一郎は、机の前で軽く伸びをした。これで今日の予定は完了である。
「そろそろ寝よう」
机の上に広げた教本や石板、石筆、肥後の守などを信玄袋に仕舞い込み、押し入れから布団を引っ張り出した。
「よいしょ!」
布団を敷いて枕元に明日着る着物を揃えていると、出入口の襖が開らく音が聞こえた。
「伝一郎……」
現れたのは菊代だった。風呂上がりの為か、その頬は僅かに上気し、首筋は汗ばんでいる。
「どうしたの?母さま」
こんな夜更けに母親が部屋を訪れた事が無い──不思議に思った伝一郎が、その辺を確かめると、
「話があります、部屋にいらっしゃい」
「えっ……」
明らかに、さっき迄と違う母親の気色は伝一郎を戸惑せる。また隣部屋を訪れる事があろうとは、考えても見なかった。