密かな遊戯-2
どこかで電話が鳴った。どうやら業務用の電話らしい。
庭朋美が慌てて受話器を取る。
「もしもし、……私です。……はい、……お客様が、……ほんとうですか?」
彼女の顔色が青ざめて見える。何らかのトラブルが発生したようだった。
急いでエプロンをはずした庭朋美が、なぜか私のほうへ駆けてくる。
「申し訳ありません。女手が必要なので、私と一緒に医務室に来てもらえませんか?」
困った顔の彼女に言われ、私は頷いた。
訳を訊くと、温泉に入ろうとしていた若い女性客が、脱衣所で突然倒れたという。貧血を起こしたのか、あるいは風邪でもひいたのかもしれない。
庭朋美を追って医務室に入ると、フリース姿の女性がベッドに寝かされていた。目を開けているので、意識はあるらしい。
「ご迷惑をかけて、すみませんでした」
梅澤由衣(うめざわゆい)と名乗るその女の子は、申し訳なさそうに詫びてきた。
「お連れの方を呼んできましょうか?」
彼女を不安にさせまいと、庭朋美は凛とした表情でそう言った。
「ええと、あのう、一人で平気です」
目鼻立ちは幼いけど、女子高生ではなさそうに見える。その彼女がトイレに行きたいと言った。
庭朋美がドアを指差したので、女の子はベッドから脚を下ろした。その直後だった。
「ああっ」と切ない声を上げたかと思うと、女の子はベッドのそばにうずくまってしまった。シーツを掴んで引きずり下ろし、びくびくと肩を揺らしはじめた。
「大丈夫ですか?梅澤さん……。梅澤さん……」
庭朋美の呼びかけに返事もできず、女の子の呼吸は荒くなるばかりだった。
いやいやと首を振り、何かに抵抗するようにもがいていたけれど、やがてそれも治まった。女の子は泣いていた。
「こんなことになるなんて、あたし……」
独り言をつぶやきながら、指で涙を拭っている。
「念のために救急車の手配はしてありますけど、この雪でいつ到着するかわかりません。どこか痛みますか?」
庭朋美が尋ねると、梅澤由衣は首を横に振った。
「じつは、あたし」と梅澤由衣は話しはじめた。
自分はある人に会うためにここへ来た。その人物とどういう関係なのかは明かせないけれど、別館に取ってあった部屋に入ると、テーブルにプレゼントが準備されていた。
これはどうやらサプライズの演出だと思い、そこへタイミング良くメールが来たので、大いに期待した。『それを着けて本館まで来て欲しい』という内容だった。
プレゼントを開けると、箱の中にプラスチックの卵が入っていた。
二通目のメールには、『リモコン式のバイブレーターだから、どこで動くかわからないよ』とあった。
スリルのない日常から逃げ出してきたこともあり、その指示に素直に従った──というわけだった。
「誰にも迷惑かけないつもりでいたのに、ほんとうにごめんなさい」
梅澤由衣はあらたまって謝罪した。
私も庭朋美も、言うべき言葉が何も出なかった。
「ここで彼に会う約束があって、それで泊まりに来ただけなんです」
「彼って、恋人のことですか?」
「いいえ」
私の言葉を否定して、梅澤由衣は真剣な眼差しでこう言った。
「ノブナガという人です」
冗談で言ったふうには聞こえなかった。私は息を呑んだ。
「そのような名前の方は宿泊されていませんよ」
庭朋美は首をかしげて言った。今までになく怪訝な顔をしている。
「違うんです。あたしもほんとうの名前は知らないんです。こんなふうにだらしがないから、バチが当たったのかも」
梅澤由衣の言葉尻に、私は嫌な予感を抱いていた。彼女の言うノブナガが、私の知っている千石寛と同一人物なら、彼はもうここに到着していることになる。
おかしい。
千石寛という名前自体も、偽名の可能性がある。私は彼の顔も知らなければ、年齢も聞かされていない。
私はオリオン座を思い浮かべた。
リゲルやベテルギウスの和名はそれぞれ、源氏星、平家星と呼ばれている。さらに女戦士の異名を持つベラトリックスという星がある。
夜空に輝く源氏や平家の女は、織田信長の野望によって地に落とされてしまうのだろうか。
そんなことを考えていると、遠くから救急のサイレンが近づいてきた。到着して間もなく梅澤由衣が辞退するやり取りがあって、救急車はふたたび雪山の麓へ引き返していった。