想-white&black-N-10
濡れた音を立てて唇が離される。
「あ、楓さ……ん?」
彼は少しでも動けばまた触れそうな距離で私をじっと見つめたまま動かない。
吸い込まれそうなこの人の明るい瞳は一体何を考えているのだろう。
それから少し眉をひそめながら諦めたように短く息を吐いた。
「行ってくればいい。一樹に言って車を出させてやる」
「え?」
「ただし、必ず戻って来い。お前がここを嫌ってようがお前は俺のモノだ。今度また逆らったら容赦しない」
指の背で頬を滑らせたかと思うともう一度唇をきつく吸われる。
「いいか、絶対に帰ってこいよ」
「………はい」
私はそう返したけれど、それでも楓さんはどこか不服そうな表情を残したまま私から離れた。
そして部屋にあるインターホンで一樹さんに繋ぐ。
「俺だ。結城の家に行く。車を回せ」
『かしこまりました』
麻斗さんの見舞いに行かせてもらえるのは嬉しいけれど、どうして急にそんなことを言い出したのだろう。
私は訳が分からずに見つめていると楓さんが振り返った。
「何をしている。さっさと用意しろ」
「あっ、はい」
それから足早に部屋を出ていく楓さんの後を慌てて追いかけた。
急いで玄関を出ると既に車と一樹さんが側で待機している。
「麻斗が熱を出したらしい。花音を連れて見舞いに行く」
「最近落ち着かれていると安心していたのですが……、かしこまりました」
楓さんと一樹さんとの間で交わされる会話を聞いて私の中でふと疑問が生まれた。
"最近落ち着いていた"……?
「あの、今のってどういう意味ですか?」
「……何でもない。お前が気にすることじゃない。一樹、車を出してくれ」
楓さんは答えるつもりはないらしく私の質問をかわすと車を出させた。
車内は私も楓さんも一樹さんも、誰も口を開くことはなくてただ沈黙と時間だけが流れていく。
「到着しました」
しばらくして一樹さんの静かに声をかけてきた。
いつの間に着いていたのか、気付くと窓の外には麻斗さんの屋敷が見えていた。
前に見たのは麻斗さんの誕生日の夜以来だ。
あの日も隣には楓さんがいたんだった。
先に車を降りた楓さんの後に付いて屋敷の中に足を踏み入れると、そこには一人出迎える男の姿があった。
「これは楓様。珍しいですな」
「……柚木。この間はやってくれたな」
「さあ、何のことでございましょう」
柚木と呼ばれた四十代ほどの男性は楓さんの責めにも穏やかな笑みのままかわす。
ふと柚木さんの視線が私に移った。
すらりとした体躯に落ち着いた優しい声、その雰囲気に似合った整った顔立ちはその辺の同年代に比べるもなく魅力的な人だ。
だけどこの人もただならぬ何かを持っていそうで油断ならないかもしれない。
だがそれを匂わせることなく嬉しそうに笑みを深くした。
「あなた様が花音様ですね。麻斗様の御婚約者の」
「えっ、いえ、私は……」
「柚木、俺の前で下手な事は言わん方がいいぞ」
柚木さんの言葉に楓さんの口調が厳しくなる。
それでも柚木さんは狼狽えることなく楓さんに恭しく頭を下げた。
「これは大変失礼致しました。しかし可愛らしいお方ですね」
ここにいるということは多分結城家の人間、もしくは仕える人なのだろうけど柚木という人物は一体何者なんだろうか。
「もうその辺でいいだろう。奴は部屋にいるな?」
「はい。お部屋で休んでおられますよ。行ってさしあげてくださいませ」
そう言って柚木さんは私達を案内してくれた。