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庭屋の憂鬱
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宴の夜、歓喜と嗚咽-1

「椿姉さん、お屋敷のあの庭は親父の仕事だったよ」

「ああ、桔梗から聞いた」

 義兄(あに)壮介から桔梗に告げられ、更に桔梗から椿へと既に伝わっていた。しかしその事は椿にとって大した問題では無いようで、一言で切り捨てられた。椿にとって今一番大切なことは目の前の帳簿の事である。

「陸、見てごらん。今月は陸が涼風(ここ)園を継いで三年、始めての黒字だよ。それもこんなに」

 椿がこれ以上は無いという笑顔を浮かべ帳簿を陸に手渡した。昨日、春風のお屋敷から今までの仕事の払いが振り込まれたのだ。振込みの欄には涼風(うち)園からの請求を遥かに上回る金額が書き込まれていた。

「最初は何かの間違いだと思ってお屋敷に電話を入れたら差額はお礼だってさ。お屋敷の奥様も陸の仕事が余程嬉しかったのだろう、私も鼻が高いよ。今日はみんな集まって宴会だね。早速連絡しなくちゃ」

 椿に聞きたかった父の仕事の事は既に何処かに消し飛んでいた。今日はとんでもない一日になりそうだ。陸は覚悟を決めるしかなかった。



 一旦自分の家に帰った椿が再び抱え切れないほどの買い物袋の山と共に戻って来たのは和らぎかけた夏の日が沈む頃である。それを合図に次々と姉たちが集まって来た。

 三女の桔梗はコモを被った日本酒の樽を軽々と抱えてやって来た。陸と一番歳の近い四女の紅葉は乗ってきた真っ赤な車のトランクから大きなクーラーボックスを取り出す。中には良く冷えたシャンパンがぎっしりと詰まっている。最後に二女の桜が胸に何枚もの見合い写真を抱えてやって来た。余程嬉しいのであろう、どの姉の顔にもこれ以上は無いという笑顔が浮かんでいる。姉達のこの類の笑顔が陸にとっては招からざる笑顔である事を幼い頃から良く知っている。陸の長い夜が始まった。

 座敷にドーンと据えられた大きな座卓の上座に陸は座らされ、その周りを四人の姉たちがグルッと取り囲む。座卓の上には椿の手で拵えられた祝いの膳が所狭しと並べられている。先ず椿が口火を切った。

「みんなに電話で知らせた様に、やっと陸が一人前の庭屋になってくれた。嬉しいね、こんなに嬉しい事は無いよ。今日はトコトン食べて飲んじゃうよ。皆もいいね。」

「乾杯」

 どの姉も男勝りの飲兵衛である。椿の一言を合図に目の前のビールグラスが一気に空になった。ずらっと並べられたビール瓶が次々と空けられる。一ケース分のビールがあっという間に空になった。次は紅葉(もみじ)が持参したシャンパンだ。これもたちまち消えた。空になった料理の皿が次々と片付けられ、座卓の上の空いた場所に桔梗が持参したコモ樽が置かれる。もう充分に飲んだ筈の四人の姉達は未だ飲み足りないという勢いでコモ樽の酒を煽る。陸がまともに四人の姉の相手を出来たのは最初のビールだけであった。シャンパンで酔いつぶされ、日本酒で意識を無くした。それでも姉達の宴は果てしなく続く。

「こら陸、起きろ! たったこれっぽっちでだらしねーぞ、起きろ、陸」

 冗談じゃない、これ以上付き合ったら殺される。この場から逃げ出そうともがくが、もがけばもがく程意識が薄れていった。



 胸の悪さに目が覚めた時、さすがの姉達も皆が酔いつぶれ、他人には決して見せられない格好でそこら中にひっくり返っている。辺りには桜が持参した見合い写真が散乱していた。陸が酔いつぶれた後、姉達は写真の主(あるじ)達を魚にますます飲んだ事が容易に想像できた。しかし、陸にはそんな事はどうでも良かった。襲い来る嘔吐感に耐え切れず、トイレに飛び込んだ。

 ひとしきり便器の中に吐き戻し、胸の悪さが納まった時、何処かですすり泣く女の声がする。何かを搾り出すような悲しい泣き声であった。

「俺は未だ酔っているのか?」

 自分が起きているのか、それとも-夢でも見ているのか、それさえも定かではない。再び襲ってきた酔いの波に呑みこまれ、便器を枕に再び意識を無くした。

 陸が再び目を覚ました時、日は既に高くなっていた。きちんと敷かれた布団の中から周りを見渡すが、昨晩の乱痴気騒ぎの名残は何処にも残っていない。今にも割れそうな頭を抑え、這いだすようにして布団を抜け出し事務所の扉を開けた。そこには何事も無かったように事務を執る椿の姿があった。

「なんて顔しているんだ、さっさと顔でも洗って朝ごはん食べな」

「姉さん達は?」

「何時だと思っているの、もうとっくに帰ったよ。それより大変だったんだから、四人がかりでトイレからあんたを引っ張り出して布団に寝かせつけるのに大汗かいちゃった。おかげで一変に酔いが醒めて朝まで飲み直したよ」

 なんて姉達なのだ。どれだけ飲めば人並みに酔いつぶれるというのか。改めてかなわないと思った。

 全てを吐き出しきった胃の中には何一つ残っていない。椿が用意してくれた朝粥は全てすんなりと胃の中に納まった。

 箸を置いた時、すっぽり抜け落ちた昨晩の記憶の端に、搾り出すようにすすり泣く女の泣き声が鮮明に蘇ってきた。あれは誰の泣声だったのだろうか? 陸の中に新たな憂鬱が又ひとつ生まれた。


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