突然の訪問者-1
前日の事である
それにしても暑かった。
陽が落ちてもその熱気は一向に収まらない。今日一日の汗を冷たいシャワーで流し、トランクスパンツ一枚の姿でキンキンに冷えた缶ビールを一気に煽る。真夏の庭仕事の後はこれに限る。アルコールに弱い陸もこれはたまらない。スキンヘッドの頭が見る見るうちに朱に染まっていく。仕事机の上に足を投げ出し、背もたれにだらしなく体を預ける。静かに目を閉じて心地よいゲップが出てくるのを待っていた。
「ごめん下さい」
事務所の玄関のガラス戸が開くのと盛大なゲップが出るのが同時であった。
あまりのタイミングの良さに陸は派手な音をたてて椅子ごと真後ろにひっくり返った。
この突然の来訪者はこれ以上丸くなりようが無いという位目を丸くしてスキンヘッドの頭を泡だらけにしてパンツ一丁で椅子ごとひっくり返っている陸を見下ろしている。陸も目を丸くしてこの突然の訪問者を見上げた。小汚いこの事務所にはまるで似つかわしくない高価な和服を着た上品なご婦人である。和服に疎い陸の目にもそれが正絹(しょうけん)の絽(ろ)だという事が直ぐに解った。
このご婦人の目にはめくれあがったトランクスパンツの裾の隙間からはみ出した陸の分身がはっきりと見えたに違いない。
「ちょ、ちょっとお待ちを」
股間を押さえ大慌てで起き上がり、陸は隣の部屋に逃げ込んだ。
形ばかりの上着を引っ掛け、冷たい麦茶を手に陸が再び事務所に姿を現した時、このご婦人は先程の憐れな陸の事などとっくに忘れたかのように部屋の隅の高いところに祭ってある神棚を身じろぎ一つせず見上げていた。先々代の頃から祭ってある何の変哲も無い薄汚れた神棚である。
それはまるで童女が珍しいものでも見つけた時の様なあどけない姿であった。
陸が差し出した冷たい麦茶をいかにもおいしそうに飲み干すと、
「なんてかわいいのかしら。小鳥でも買ってらっしゃるの?私の家にも是非ほしいですわ。それにこのお飲み物もとっても美味しい」
「いえ、あれは巣箱ではございません、神棚という・・・」
どうやらこのご婦人、神棚を見るのが始めてならば麦茶を飲むのも始めてらしい。
神棚がどういうものなのか説明するのも難しいし、ただ冷たいだけの安物の麦茶をこうも褒められるとかえって恐縮してしまう。なにやら厄介なことになる予感がした。
陸は恐る恐るこのご婦人に声をかけた。
「あのー、どちらさんで?」
「あら、ご挨拶も済まない内にご馳走になったりしてお行儀の悪い事。私、今度こちらに越してまいりました春風町の春風と申します。どうぞお見知りおきを」
「春風町の春風さん?」
陸は混乱した。陸が住むこの町の名は春風市という。春風藩が明治以降春風郡から春風市と名を変えて現在(いま)に至っているが、春風市の中で春風町といえば後にも先にも一箇所しかない。今でこそ石垣しか残っていないが、かつてこの地を治(おさ)めていた春風藩の藩主の居城が在った春風公園、その公園一帯だけが春風町という町名として残っている。人の住まいなど一軒も無い筈だ。城跡の植木の手入れに何度も行っているからあの辺(あたり)の事はよく解っている。
「春風町の春風さんって言ったって」
そう言いかけて、陸は突然思い出した。
“在った、一軒だけ”
春風のお殿様がご維新の後(のち)子爵となり代々お住まいになっていたという下屋敷だ。その子爵家が戦後まもなくお住まいを東京に移されて無人の館になったのは陸が生まれるずっと以前の事である。それから、かれこれ五十年以上は誰も住んでいない筈である。屋敷をぐるりと瓦塀が取り囲んでいる。その瓦塀も表面に塗られていた白漆喰がすっかり剥げ落ち、今やただの土塀と化している。
茂り放題の庭木のおかげかどうか、塀の外からは屋敷内の様子を垣間見ることすらできず、今ではお屋敷の敷地全体が公園の森の一部と化している有様である。春風町の春風さんのお宅といえばあのお屋敷しか無い筈である。
「あのー、春風のお殿様の・・・」
「はい、その春風です」
彼女はニコリと微笑み、涼しい顔で事も無げにそうおっしゃった。
陸は改めて挨拶をし直しながら仕事用の名詞を手渡した。
「私、涼風園の代表をしております「涼風 陸」と申します。それでその春風のお殿様が私なんぞに何用で?」
「あらいやだ、春風のお殿様だなんて。私、「春風 翠(みどり)」と申します。祖父の代からはただの春風でございます。そんな事はどうでもよろしいのですが、屋敷のほうはいつ戻って来てもよろしいようにと手を入れていたのですが、どういう訳かお庭のほうは今まで一度も手を入れずじまいであの有様。今度春風町(こちら)へ越して参りましたのを機にお庭のほうもなんとかとしたいと、それで早速お手入れのお願いにあがりましたの」
このご婦人、いとも簡単におっしゃる。
「きちんとするとおっしゃられてもあの庭をちゃんとした庭にするには少々じゃ・・・」
そう言う陸を遮るように
「掛かりのほうは一向に構わないのですが、出来るだけ早くきちんとしたお庭に仕上げてほしいのです。何とかお引き受け願いませんこと?」