『由美、翔ける』-3
「それが、堅物である由美の、“恋”の始まりだった」
「勝手に文章、つけないで」
寮のルームメイトである真壁桃子と、テーブルを挟んで対面にいる柏木由美は、何処かの誰かが怒るわよ、と、何処かの誰かに言うでもなく、何処かの誰かのそんな心を、何処かの誰かに代わって、代弁していた。
「でも、事実なんじゃないの?」
「う……」
確かに、公園で悪漢に襲われて、それを助けてくれた青年のことが頭から離れないのは事実だった。
ちなみに、変態の悪漢中年に襲われるきっかけになった“排泄行為”については、当然ながら伏せている。相手が気のおけない桃子といえど、いい歳をして“公園で野糞をした”ことなどは言えるはずもない。
「その人のアパートで介抱されたんだから、何処の誰だか、わかってるんでしょ?」
「え、ええ……」
青年に抱えあげられた由美は、すぐ近くだという彼のアパートに連れられ、汚れて乱れた身だしなみを、整え直すことが出来た。
ドロドロになったお尻の後始末のために、トイレやバス・ルームを随分と汚すことになってしまったのだが、それを気にする素振りは全く見せず、汚れ物を入れるためのポリ袋や、タオル、着替えのジャージなどを手早く用意した彼は、
『僕は外に出てますから、ゆっくりしてくださいね』
と、いうなり、部屋を出ていっていた。
やがて、体を綺麗にして、用意してくれたジャージに身を包んだ由美は、玄関のすぐ外で待っている彼に声をかけ、助けてくれたことにまずは礼を述べた。
だが、その彼は、
『お礼は不要です。それと、今日のことは、僕のことも含めて、忘れてしまってくださいね。そのジャージも、返しに来る必要はありませんから』
と、いって、名前も教えてくれなかった。
『落ち着いたら、タクシーを呼びますから。身内のやってるとこなんで、請求はウチにつけます。気にせず、そのままお帰りなさいね』
流れるような一連の事象をもって、今に至るというわけである。
アパートを出て、タクシーに乗り込むまでの間に、表札を見た。“八日市”と言うのが、彼の姓であることはわかったし、ここが“月見荘”だということも由美は覚えておいた。タクシーの中では、その“八日市”君が相乗りしていたので、身内だという運転手には、何も訊くことは出来なかった。
帰りがすっかり遅くなったため、寮長には最初、随分と絞られてしまったが、由美は包み隠さず(当然ながら“排泄行為”を除いて)、自分の身に何が起こったのか説明し、逆にその寮長から“無事でよかった…”と、涙を流された。
『寮長として、その方にお礼を言いたいのだけれど…』
と、提案もされたが、助けてくれた本人が望んでいないことだったので、それは自分の宰領で行うことを彼女には伝え、そして、どうするべきか思い悩んで、後日、ルームメイトで親友である桃子に相談したというわけである。
「口実は、いっぱいあるじゃない」
「でも、あの人が望んでいないから……」
「うーん」
桃子も少し、難しい顔をしていた。
「由美は、このまんまでいいって、思ってるの?」
「………」
桃子の問いに、由美は首を振った。自分を助けてくれた青年に、きちんと礼はしたいし、正直なところ、また会いたいと思っている。
「なら、ぶつかるしかないじゃん」
「ぶつかる……?」
「うん。“忘れろ”って、言う相手に対して、“忘れられない”って、由美の気持ちをぶつけるんだよ」
「でも……」
由美は、“忘れてくださいね”と言った相手の意思を慮るあまり、消極的な思考になっていた。
「そんなんじゃ、また“後悔”しちゃうよ」
「!」
「それでもいいなら、あたしはもう、何も言わないけど」
「………」
桃子の言葉に、由美は、心に突き刺さっている棘の痛みを思い出していた。