『由美、翔ける』-29
与えられた一週間の休暇のうち、初日こそは一泊をして、念願の“初体験”を八日市と交わした由美であったが、それ以降は日帰りで、“城東スポーツセンター”と、“八日市の部屋(愛の巣)”と、“女子寮”とを、トライアングルのように行き来していた。
(もう一泊分、“外泊届け”を出しておけばよかったかしら……)
申請は、外泊予定日の1週間前に限られており、もし無断外泊をしようものなら、一ヶ月の“外泊禁止”を言い渡されてしまう。申請をした時は、本当に八日市の部屋で一夜を明かすことができるか自信がなかったから、由美は、別の日の外泊を予定に含むという余裕を持つことが出来なかったのだ。
(……これで、いいのよ)
八日市の部屋に通うということは、当然ながら、それだけの回数のセックスをするということである。節度を保つには、外泊を適度な回数にすることが必要で、そういったケジメをつけなければいけないと、さすがは堅物の由美が考えそうなことであった。
「よっくん、きたわよ〜♪」
とは言え、部屋の中に入る瞬間の、高揚した気分は抑えようもない。由美の、歌声のようなとても上機嫌なその声を、桃子がもし聞いたとしたら、部屋の壁に穴があいたことであろう。
「いらっしゃい、ユミさん」
「おじゃましています」
「あら、お客様?」
八日市とは、別の男子の声が聞こえてきたので、由美は少し緊張した。
「すみません、お邪魔しています。自分は、隣の住人で、岡崎というものです」
そう名乗りを受けて、由美は、隣の部屋の表札が“岡崎”という名前だったことを思い出した。
「岡崎さんに、特上な牛肉のお裾分けをいただいたんですよ」
「母の実家から、母を通して届いたんですが、いかんせん量があったもので」
「それは、どうもありがとうございます」
由美はまるで、家内のように、岡崎に対して頭を下げていた。
「それにしても、八日市君に、こんな綺麗な彼女がいるとは思いませんでしたよ」
「ま、まあ、お上手ですね」
“綺麗な”と言われて、喜ばない女子はいない。由美は、朴訥とした岡崎の思いがけない美辞に、素直に顔を赤らめて、照れた様子を見せていた。
「あ、ごめんなさい。わたし、柏木由美といいます」
そのすぐ後で、名乗りを忘れていたことを思い出し、自分の名前を岡崎に伝えてから、彼が持参してきた牛肉の包みを、二人の目の前で開いてみた。
「霜降りの、立派なお肉ですね。すきやきがいいかも」
「それなら、岡崎さんもぜひ、ご一緒しませんか?」
「いいのかな? 水入らずを、邪魔してしまうんじゃ……」
「三人分で丁度いい量ですわ。よかったら、ぜひ」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
この日は期せずして、三人による夕餉となった。
鉄鍋とカセットコンロが、八日市の部屋にはあり、おそらく、これまで一度も使用した形跡のなかったそれを一度、すすぎ洗いをする。そして、完全に中身が由美の仕様になっているキッチンの冷蔵庫から、“すきやき”に必要な調味料を取り出し、その中に注ぎ込んだ。
「お肉がとてもいいから、他はネギだけにしますね」
シンプルに、肉の旨味を楽しもうというわけである。
「「「いただきます」」」
そうして出来上がった“すきやき”を前に、三人は示し合わせたように合掌の合図を交わしてから、小鉢に肉をより分け、それを頬張った。
「う、うまっ」
「おいしい…」
「む、うまい」
その霜降り具合が示すように、肉の旨味がたっぷりと口の中に溶け込み、三人は至福の時を味わっていた。
あっという間に肉はなくなったが、その旨味がしみ込んだ煮詰まった“つゆ”に、由美は豆腐を入れた。肉と豆腐を別けて入れたのは、豆腐の水分によって“つゆ”が薄まるのを防ぐためでもあった。
「う、うまっ」
「おいしい…」
「む、うまい」
豆腐に沁みた肉の旨味を、改めて反芻し、焼き直したように、同じ台詞を繰り返す三人であった。
「すっかり、ごちそうになってしまったな」
岡崎は、食後のお茶の一杯を啜り終えると、すぐに立ち上がった。
「もっとゆっくりされたらいいのに」
「そうですよ、岡崎さん」
そう二人に言わせるほど、岡崎の持っている雰囲気は、誠実で清涼に満ちているものだった。
「いや、さすがに。これ以上は、お邪魔になってしまうよ」
岡崎としては、届けられた肉を、きちんとした形で味わえたことだけでも、充分すぎる饗応だと思っていた。恋人同士である二人の甘い時間を、邪魔するわけにはいかないという、TPOも彼はわきまえていた。
「それでは、お二人さん。ご馳走様」
そう言って、岡崎は部屋を後にした。
「……とても、いい方ね」
「岡崎さん、僕が引っ越してきたばかりのとき、荷物おろしも手伝ってくれたんですよ」
以来、何かあるとは、お裾分けをしあう関係になっているという。
「そういえば、“月見荘”には他にも住んでいるひとはいるの?」
「僕が越してきた頃は、上の階にも人はいたようですが、共同の郵便受けから見ると、今は僕と岡崎さんだけのようですね」
そもそも、部屋の個数が上下に三つの合わせて六つという、小さなアパートなのだ。
「………」
ふと、由美は急に気になることがでてきた。
「あ、あの、よっくん。ここ、壁は薄くないの?」
この一週間、獣のように交わって、散々大きな喘ぎ声を発してきた。今更ながら、それが壁を越えて聞こえていないか、由美は気になってきたのだ。
「どう、でしょうね……?」
「ちょ、ちょっと」
「岡崎さんの部屋の音は、聞こえたことがないですから、多分、大丈夫なのでは?」
「なら、いいんだけど……」
部屋の主がそういうのであれば、信じるよりない由美であった。