アールネの少年 1-2
ある夜更け、長い閣議を終えて、初老の王はようやくその身を寝台に横たえた。
日々の激務に身体は疲れ果てていたが、眠気はなかなか訪れなかった。考えをまとめねばならないことが多すぎて、眠ろうと目を閉じるほどに頭は冴えていく。
十日後、ロンダ―ンの王女が北ナブフルを訪問する予定となっていた。目的は、西方に建設中の軍事施設の視察だ。
そのような役に、風にもあてずかしずかれて育ったであろう深窓の王女を寄越すロンダ―ン側の意図は読めないが、彼にとってはよい機会だった。
王女はしばらく王城と領事館とに滞在することになる。その間に様々な歓待の行事が用意されていた。
話の運び方によっては、南部の土地の開墾に必要な援助を引き出せるかもしれぬ。あるいはもっと深く……幼い王子との縁組という発想を先方に与えることもできるかもしれない。
王女の方が十も年上ではあるが、両国の親交を深める益に比べれば、そのくらいが何ほどのことだろう。
とにもかくにも、王女にこの国を気に入ってもらわねばならぬ。そして、気に入った旨を王と家臣らに伝えてもらう必要がある。年若い姫君の喜びそうなことなど彼にはわからないが、歓迎の行程にぬかりのないようにしなければ。
同盟破棄を目論む反ロンダーン派の動きは、頭の痛い問題だった。
警護の態勢はむろん万全だ。
彼らにしても同盟関係から益を得ているわけで、そう乱暴なまねに及ぶとは思えないが、万一ということもある。
この好機を台無しにされてはたまらない……
そこまで考えて、ふと、王は思索を止めた。
止めざるをえなかった。不意に血の下がるような悪寒が走ったかと思うと、脳が痺れるような、ジリジリという不快な耳鳴りが始まったのだ。
彼は飛び起きようとして……さらに、驚くことになった。
身体が動かない。
これは金縛りといわれるものか、と王は考えた。
指の先から瞼にいたるまでぴくりとも動かせないのだ。老いた身体は数年前より疲れやすくもなっていたし、朝の目覚めの折には倦怠感で力が入らぬことも時にはあった。だが、これはまるで違う。
何かひどく重たいものに、全身を覆われ圧迫されているような……何かが身体に触れる感覚は一切ないにも関わらず、彼はそう感じていた。強風に圧されるかのような実体のない、外部からの力だ、と。
異常な事態に、彼は緊張を覚えた。目を開けられず、耳鳴りがうるさくて周囲の音も聞き取れない。
いつもどおりの夜ならば、寝室には王一人だ。
だが感覚を閉ざされた真の闇の中、彼の皮膚は何者かの気配を感じ取った。
空気とは常に動いているものなのだ。
王は生まれて初めて、そんなことをぼんやりと考えた。それほどに、今この部屋の空気は静止していた。呼吸すらままならない、完全な静寂だ。
だからその静止空間を、ごくひそやかに乱す何かの存在が、王にはわかったのだ。
それは、彼の感覚が確かならば、扉ではなくバルコニーに続く窓の方向に出現した。そしてじわりじわりと王の寝台に近付いてくる。
王は横たわったまま、全精力を傾けて唇を動かした。
「……誰か」
かすれた声が空気をわずかに震わせ、そのまま消えていく。この音が、扉の外に立つ歩哨に届いたとはとても思えなかったが、王はそれを願った。
幼い王子を一人遺して王妃は一昨年身罷っており、それから初老の王の閨にはべる者は久しく存在しなかった。であれば、王の寝室に他の誰が入り込めるだろうか。
夢だとは考えなかった。身じろぎもできぬ苦痛は確かに現実のものだ。
気配は、王の豪奢な寝台のふちまでも達しつつあった。
見えもせず、聞こえもしないが、王の寝台に重みのある何かが乗り上げたのは確かだった。柔らかな寝台は重みに耐えかねて、王の身体ごと深く沈んだ。
何かが胸の上にのしかかるのを、彼は拒むこともできずただ待っていた。
「……っ…」
衝撃。
ガン、と殴りつけられるような、それでいて物理的な感触のない衝撃が彼の全身を襲った。
何かが、彼の心臓を止めたのだ。
身体の急速に収縮するかのような痛みが全身を覆う。呼吸が止まった。
唐突に、身体を圧迫していた何かが彼を解放した。だが、苦悶に胸を抑えることすらもはやできなかった。
耳鳴りが止まる。不快な幻聴の消えたあと、彼の聴覚はひどく冴えわたって、ある音をとらえた。
この部屋の、バルコニーに続く窓のある方向。窓は閉じていたはずなのに、外の風と葉ずれがはっきりと聞こえる。その、ざわめきの合間に。
……これは鳥の羽音だ。
消えゆく意識の底で王は思った。小鳥というには大きい、中型の鳥の、羽ばたきが遠ざかる音。
それが王の最後の思考となった。
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