厨房 旭(アキラ)の事情(旭って誰?)-3
それから一週間、佐代と別れた旭は、厳しい板長の下で修行に打ち込んだ。
しかし、若い2人にとって、満たされた性欲も直ぐに枯渇してしまう。
佐代は寂しさを紛らわすために、以前から色目を使われていた旅館の旦那の誘いに応じるようになってしまった。少しは自暴自棄になっていたかもしれないが、旭に開拓された女体は男を求めて疼いてしまうのだった。
一方、別れを切り出した旭の方も仕事が手につかなくなっていた。
「バカやろ―!てめぇ、何やってやがんだ!」
厨房に板長の罵声が飛ぶ。
ハッとした旭が手元を見ると、焼き過ぎた魚が黒々と煙を上げていた。
修行に集中するために別れた筈なのに、今まで以上に佐代のことが脳裏を過る。やることなすことにミスが続き、今まで以上に板長に怒鳴られるようになっていた。
(旭の野郎、何をやってやがんでぇい!)
厨房を預かる責任者の板長は、厨房のリズムを狂わす旭の失敗が気になった。旭の不調の原因が何かと考えたが、旭のように若いヤツが気もそぞろになることは限られてくる。他の厨房の若い者に探りを入れると、案の定、女が絡んでいることがわかった。
(なるほど佐代か。あれはいい女だからな。オレも一発やりてぇぐれぇだ)
そして今日の午後のことだった。そんな邪な考えを微塵にも出さずに板長は仕込みの最中の旭を呼んだ。
「旭!ちょっとこっちへ来やがれ!」
「は、はい!」
旭の顔に緊張した表情が浮かんだ。ここのところの失敗続きで辞めさせられることを想像してしまい顔が引き攣るのがわかった。
(ま、まさか、馘首じゃ。もし、ここで辞めさせられたら、オレは一体何をやってたんだ…)
そんな旭の不安な思いを余所に、板長はいつものように斜に構えた態度で口を開いた。しかし、そのぶっきら棒な口調から切り出された言葉は、旭の予想外なものだった。
「今日は客が一組だからみんな休ませた。今日はオレとてめぇと2人でここを仕切ることになる。出来るか?」
「えっ?」
旭に戸惑いの表情が浮かんだ。仕込みの時間になっても誰も来ないので不思議に思っていたのだ。
「『えっ』じゃねえ、バカやろー、失敗続きのてめぇに荒療治でぇ!旭、てめぇはここに来て何年になる?」
「は、はい、4年です」
「そうか4年か、ならば問題あるめぇ。旭出来るな」
板長は満更でも無い目で旭を眺めた。
「そ、そんな板長、オレ自信ないです!」
「バカやろー、てめぇの自信なんかクソ食らえだ!厨房の事はオレが決めるんでぇ!」
「そ、そうですけど…」
「そうなんだよ、厨房ではオレが絶対だ!オレのこの目で見たてめぇの技量がありゃあ、てめぇに自信があろうが無かろうが関係ねぇ!」
「はい?」
実は板長は旭に期待していたのだ。毎日怒鳴るのも旭の成長に期待してのことだった。
初めて旭に会ったときのことは忘れない。自分の境遇を訥々と語り、両親のために自分の店を早く持ちたいと言った旭の澄んだ目が気にいったのだ。
そんな旭の夢のために板長は特に旭を扱いた。無愛想な板長はそうやって叱ることで旭を応援し、そして旭の方も叱られながらも板長の期待に応えていたのだ。
「で、でも、板長!オレ、板長に怒鳴られてばかりで。それにここんとこ失敗続きで…」
叱られる方の旭は板長の思いがわからないまま、自分に才能が無いからだと落ち込む日々が続いた。その結果、散々考えた挙句に佐代と別れたが、それが逆効果になってしまっていたのだ。
「オレは見込みのねえヤツを怒鳴るほど暇じゃねぇ!怒鳴るのは見込みのあるヤツだけだ」
そう言って板長はニヤリと笑った。
「い、板長、それじゃあ…」
旭は感動の余り後の言葉が続かなかった。
「ああ、そういうこった。てめぇは立派にオレの期待どおりに成長してるぞ」
板長が見せた初めての褒め言葉だった。