35 おうじさまのくれたもの *性描写-1
そんな多忙な日々がすぎ、カティヤが王子妃としてゼノ城へ正式に入城したのは、なんと一ヶ月も経ってからだった。
カティヤの私室は、以前の滞在で客室として使っていた部屋になる。
多少の改装を加えられ、壁紙や調度品などがカティヤの好みに整えられていた。
特に好みなど聞かれた覚えもなかったが、そつないエリアスがジェラッドの人々から聞き出したのだろう。
すっかり暗くなった窓の外には、ゼノ城下の賑わいが地上の星となっていた。
部屋の一角には、ジェラッド風の装飾をほどこしたテーブルセットが置かれている。
王子妃……未来の王妃として、カティヤは学ばなくてはならないことが沢山ある。昼のうちに、何人かの家庭教師を紹介された。
どれも感じのいい人物で、アレシュやエリアスが人選にも心を砕いてくれた事がよくわかる。
アレシュはカティヤを籠の鳥にする気はなく、部屋の片隅に置かれた箱には、動きやすい衣服が入っており、ジェラッドから持ってきた愛用品の槍を置く場所もある。
カティヤが自由時間に騎士たちに混ざり、槍の訓練をしたりしても、とやかく言う者はいないだろう。
とても幸せだ。
大陸中を探しても、これ以上の幸運を見つけるのは難しいだろう。
それでも……。
椅子に腰掛け、カティヤは落ち着かない気分で壁の時計を見上げた。
この部屋にも寝台があったが、これはカティヤが病気の時や午睡の必要な時に使用するものだ。
初めての夜を過ごす場所は、夫婦の寝室となる。
先ほど湯浴みをし、侍女たちに隅々まで手入れされた肌からは、かぐわしい花の香りがただよう。
髪は美しいながら簡単にほどけるよう編まれ、ガウンの下には極上の絹でできた真っ白なナイトドレスを身につけている。
そろそろ寝室へ向かうよう、侍女が迎えに来る時間だ。
カチカチに強張った顔で、止まってくれない時計の針を眺め続ける。
緊張と焦りで心臓が壊れてしまいそうだ。
口づけは受け入れても、それ以上になったら、自分の身体はまた拒絶してしまうのではないかと、怖い。
アレシュを愛しているからこそ、条件反射の拒絶に傷つけてしまいそうで、怖い。
ノックの音が聞こえ、バネじかけの人形のように、椅子から飛び上がる。
「はぃぃ!」
緊張しすぎて、返事の声は裏返ってしまった。
扉が開き、文官用の革靴が部屋の絨毯を踏む。訪問者は侍女ではなかった。
「カティヤさま、差し出がましいようですが、これをお持ちしました」
銀の盆を持ったエリアスが、静かに微笑む。
盆に載った小さなゴブレットには、濃い紫の液体が入っていた。
銀色がかった不思議な輝きを浮べるそれは、どう見ても普通の飲み物ではない。
「エリアスさま……それは……?」
ドクンと、先ほどとは違う緊張が心臓を跳ね上げる。
独特の香りと、この不思議な色を、どこかで見覚えがある。封じ石の寝室を見たときと同じように……。
「ストシェーダ王家に伝わる忘却薬です。忘れたい事を念じながら飲めば、二度とそれを思い出すことはありません」
「忘れたいこと……」
ツキン、と頭に痛みが走る。
『……可愛そうに』
哀れみにみちた猫なで声が聞えた気がした。
――どこでこの香りを嗅いだ?
不思議な色合いと香りは、胸がつまり泣きたくなるような悲しみを思い出させる。
呆然と薬を見つめるカティヤに、エリアスが柔らかく告げる。
「やはりこの薬に、覚えがあるのですね?」
「はい……ですが、どこで見たのか……」
エリアスはテーブルに盆を置き、冷静な紺碧の瞳でカティヤを見つめる。
「これはわたくしの憶測ですが、カティヤさまが昔、ストシェーダ王都を出る直前に、マウリが飲ませたのではありませんか?
アレシュさまやストシェーダの事を、何もかも忘れるようにと、そう願わせて」
「……!」
思いもよらぬ忌まわしい名前。信じがたいセリフに、カティヤは驚愕する。
しかし瞳に映る紫は、全てを聞いた後でも未だ曖昧な記憶をかき乱し始める。
震えるカティヤの耳に、エリアスの静かな声が流れ込む。
「不思議ではありませんか?マウリはカティヤさまに同行させた使用人を、全てゼノで殺させておきながら、なぜ本人だけはその場で殺さなかったのか。
どうしてわざわざ、ゲートも通じない不便な遠い地で殺そうとしたのか」
「え、ええ……」
「あの男はおそらく、カティヤさまの死をうやむやにする事で、アレシュさまを苦しめようとしたのです。ですから死体は決して見つかってはいけなかった」
「私を殺そうとしたのに……?死体が見つかったほうが辛いのでは?」
エリアスはゆっくり首を振る。
「どんなに絶望的でも、死体がなければわずかな希望を抱いてしまいます。
検討外れの場所で、いるはずのない人間を探し続け、時おり似た人を見かけては、そのたびに違ったと打ちのめされる……。
アレシュさまは、そうやって十七年を過ごしました。曖昧ゆえに、諦めきれなかったのです」
「そんな……」
「もしカティヤさまの死が確定でしたら、アレシュさまはかえって早く立ち直り、どこかの姫君と政略結婚か、新しい恋でもしていたかもしれません。それはマウリにとって、非常に不都合ですからね」
「あ……わたし……」
頭が割れるように痛む。
鼻腔に侵入する香りに眩暈がし、まるで芝居でも見ているように、目の前に十七年前の光景が広がる。