爛熟女子寮(1)-1
部屋の掃除をすべて済ませて一息つくと、私は冷えた麦茶で喉を潤し、ソファに身を沈めた。3LDKの各部屋はそれぞれ10畳以上と広く、リビングは30畳もあるので、トイレ、バスルームも含めるとけっこう重労働である。
平日は仕事があってその気になれないということもあるけれど、たとえ汚れていなくても土曜日の午前中は必ず掃除をすることに決めている。それに今日はまた特別、浮き浮きして楽しいくらいだった。それは素晴らしい週末を満喫するための準備なのだから。……
ベランダからは都心の高層ビル群が一望できる。この部屋は25階、〇〇スカイタワーと名称のついた高級マンションである。父の所有で私が専用で使っている。
私は佐伯志乃、独身、28歳になる。音楽大学を卒業して運よく母校の講師の職を得た。運、というより父のおかげというべきか。ともかく好きなことをのんびり仕事にしているのだから恵まれていると思う。その白亜の校舎はマンションからも霞の中にかすかに見える。
(たくさんの思い出を残した学生時代…)
とりわけ寮生活の数々の体験は忘れられない。想像もしなかった新たな発見、認識。そこで知った事々はある意味私の価値観をも変えてしまったほど魅惑的な世界だった。
10年前、私はホルン専攻で器樂科に入学した。中学、高校とずっと吹奏楽部に所属していて、楽器、音楽以外の勉強は考えたこともなかった。自分なりに自信もあった。高校も吹奏楽では全国レベルだったし、顧問の先生も推薦してくれてすんなり特別枠で合格した。ただし、大学ははっきり言って二流の女子大である。私の技量、才能もその程度だったのだと思う。
でも夢はあった。有名なオーケストラに入って首席奏者になって海外演奏をしてみたい。……だけど、金管楽器はやっぱり男性にはかなわないところがある。体力的にも感性の面でも、そして音楽のセンスというのか、そういうものはどうしようもない部分である。音楽を深く知れば知るほど否応なく現実がわかってくる。だから割りと早く夢は諦めた。特に挫折感はなかった。私は自分でも頭の切り替えは上手だと思っている。自分を知るっていうのも一種のセンスだと思うことにした。
学生の殆どが教員志望である。それはいまでも変わらない。それが駄目だったら、音楽教室の講師か、自宅教室を開いて、そのうち結婚する。のんびりした考えの学生が多かった。中には演奏家を目指していた人もいたけどごく少数で、学内にはあくせくした空気はなかった。
私は1年の時から寮生活。本当に楽しい4年間だった。
寮に入るには条件がある。当然のことながら地方出身であること、それに各学科の成績優秀者が優先ということになっていた。定員があるから選抜しなければならないわけだ。今は寮も建て替えられて希望者はたいてい入寮できるようだ。
私は成績は問題なかったようだけど、家が東京だったから本来は対象外だった。特例として認められたのは父の力である。父と学長が高校の同窓で知り合いだったので便宜を図ってくれたのだ。表向きはそういうことになっていて、私もそのように聞かされていた。後になって、多額の寄付があったことを知った。
「家から通えばいいものを。高い家賃だったぞ」
もう時効だと思ったからか、卒業してから父が言った。金額のことはわからないけれど相当な額だったようだ。
音楽やる子はよく『お嬢様』って言われるけど、実際裕福な家が多いのは事実だ。なにしろ本格的に勉強するとなるとお金がかかる。楽器だけではない。受験を目指せばレッスン代も高くなるし、先生も専科の他にソルフェージュやピアノやら2人か3人につくこともある。地方の子なんて東京まで新幹線で日帰りレッスンしたりする。事ある毎に先生にお礼もするし、受験が近くなると特別レッスンもあってまた別料金である。医学部ほどではないけれど学費も一般大学よりはかなりかかる。
4年間の思い出はいろいろあるけれど、いつも鮮烈に甦ってくるのは目眩めく性の享楽に耽った密やかな出来事である。脳裏に散りばめられた宝石のように輝くあの日、あの時の触れ合い、戯れ合い。その行為のひとつひとつが今でも生々しく私の心に息づいている。
『お嬢様』だから苦労を知らないし、世間に疎いのは全体の傾向としてはある。遊んでる子も中にはいたけど、新入生の大半は性体験はなかった。それだけに内に秘める好奇心は旺盛だったといえるだろう。
音楽家って、多かれ少なかれ自分は人と違うことをしてるって意識を持っている。つまりエリート意識。プライドが高いし、個性的、さらに感受性が強い。ふだんは本音を隠している。でも見た目は清純だったりお高くとまっていたり、つんとしていても考えていることはみんな同じである。感情が豊かなだけに想像力は人一倍だから性に対して興味がないはずはない。見栄をはってる分、秘めているものも多いのだ。私がそうだったし、4年間の体験が物語っている。