29 黒竜の涙-1
マウリはカティヤが動けないように、剣の柄でもう一度魔法の激痛を与えた後、数歩離れてリザードマンたちと見物を始めた。
「ギ……」
軋んだうめき声をあげ、アレシュが一歩づつ近づく。
黒鱗の面積は広がり続け、顎を覆い頬へ侵食する。黒と金の魔眼は開いているが、何も写していない。虚ろで不気味なガラス玉のように濁っている。
止まらない黒鱗が、アレシュの額まで全て覆い尽くす。
カティヤに伸びた手も硬い黒鱗で覆われ、指先には鋭い鉤爪が光る。
「アレシュ……さ……ぐっ!!」
地面に押し付けられたまま、力いっぱい喉を締め付けられた。
折られそうな頚骨が悲鳴をあげて軋み、鋭い鉤爪が皮膚に食い込み、血が溢れ出ていく。
息苦しさに、肺が空気を求めてのた打ち回る。
真夏の強い陽射しが、仰向けに倒れたカティヤへ降りかかる。
焼けた地面は熱く、青草の濃い匂いが鼻腔を突く。
体中が痛くて動かない。
切れた口の中に、鉄さびの味。
繰り返し見る、真夏の悪夢。
あの風景が再現されている。
夢と違うのは、カティヤはもう子どもではないこと。
けたたましい蝉の音の代わりに、ナハトとバンツァーが血みどろの死闘を繰り広げる鳴き声。
目の前にいるのは密猟者でなく、緋色の髪をした黒鱗の怪物。
かろうじて人容を保っている黒い竜だ。
「ツミダ……」
きしんでひび割れた声が、カティヤの上に落ちてきた。
黒鱗の顔で、裂け目のような口が動く。
「ツミダ……ウマレタコトガ……オレガ……ウマレタコトガ……オレノツミダ……」
黒と金の魔眼が光り、灼熱を帯びていく。
「ア……ぐぅ……レシュ……さ……ま……」
「よく見るがいい!これがアレシュの正体だ!!業火で全てを焼き尽くす、忌まわしいバケモノだ!!」
四つ石のネックレスをかかげ、マウリが高らかに叫ぶ。
「焼き殺せ!!お前の罪を使い、全てを償え!!」
「ギ……ギ……」
魔眼の光が強まり、灼熱の温度が上がっていく。
苦しくて苦しくて、意識が遠のきはじめる。
(ああ……あの時と同じだ……)
幼い日、初めて地下牢でこの姿を見た時、怖くて泣いた。
この腕に掴まった時は、もうこれで死ぬのだと思った。
(アレシュさま……)
締め上げられた喉から出る音は、ひゅうひゅう鳴るばかりで声にならない。
霞む視界と薄れる意識の中、黒鱗に覆われた顔に……微笑んだ。
この腕が全てを変えてくれたのだ。
何も無かったカティヤに魔力をくれ、竜騎士にしてくれた。
家族もナハトも騎士団の仲間も、全てこの腕がくれたのだ。
救われたのは魔眼王子だけじゃない。アレシュもカティヤを救ってくれた。
ストシェーダ先王の意思も、現王夫妻の心情も、かの国民たちの感情も、カティヤは思い図れない。
ただ、こう思うだけだ。
――貴方に出会えて良かった。
たとえ時を遡れたとしても、決して結ばれないと知っていたとしても……きっと何度でも同じ事をする。
何度でもアレシュと出会いに行く。
苦しくてたまらないのに、黒鱗の手はとても暖かくて……これが死なら、このままでも良い。
――だからもう、涙の業火を流さないで。
世界中の全てが貴方を否定しても、私はこう言って見せる。
(ありがとう。生まれてきてくれて……)