返却-7
「動揺してんじゃねえよ」
彼の第一声はそれだった。
びっくりして顔を上げると、少し困ったような苦笑いがあった。
不意に目の奥がツーンと痛くなる。
久しぶりに彼が私に言葉をかけてくれたことがまだ信じられなくて、危うく涙をこぼしそうになった。
だが私はそれを悟られないように、クッと生唾を飲み込んでから、
「……別に動揺してないし。土橋くんだって、さっき思いっきり“しまった!”って顔してたくせに」
と、声を震わせながら素っ気なく言った。
私のそんな態度もお構いなしの土橋くんは、フッと小さく笑って、
「だいたいな、なんでこんな時間まで残ってたんだよ」
と、訊ねてきた。
「数学でわかんない所があったから聞きに言ってたんだもん」
「無理すんなって。そんな頑張ったって長続きしねぇぞ」
プリントを着々と拾い上げながら、にやついた顔をこちらに向けている。
「うるさいな! 土橋くんこそなんでこんな時間にここにいるのよ」
かじかんだ手は、いつの間にか汗ばむほど熱くなっていた。
まるで、楽しく笑い合っていたあの頃を少しだけ取り戻せたような気がして、私は文句を言いながらも、プリントを拾う速度を少し緩めた。
「俺は……電話してたらこんな時間になってたんだ」
骨太な指がプリントを拾うのを休んでいる。
「……郁美?」
少し気まずそうに彼は頷いた。
「別に大した話はしてないんだけどな」
「うまくいってるんだ」
「……まあな」
うまくいっているのは、たまに家に遊びに来てはさんざんのろけ話をしていく郁美から聞いていたけど、彼の口から肯定の言葉を聞くのはやっぱり胸が痛む。
彼の方も微妙な気まずさを感じとったらしく、
「服、受け取ったから」
と、咳払いをしてから話題を変えてきた。
「あ、うん。返すの遅れてごめんね。お母さんのタンスに紛れてたみたいで」
「へえ」
「で、お母さんがそのパーカーを着て買い物行こうとしてたの見たから慌てて止めて……」
私がそこまで言うと、土橋くんはプッと噴き出した。
「マジで!? お前の母ちゃんおもしれえな」
土橋くんが目を細めて笑う。
それを見ると、再び涙が込み上げてきそうになった。
大好きだった彼の笑顔、それをもう一度私に向けてくれるなんて。
がっちりした大きな背中、無造作な硬めの髪、少しタレた鋭い目、つりあがった眉、薄い唇、大きな手、浅黒い肌……。
久しぶりに間近で見る彼の全てが私の胸を締め付け、苦しくさせる。
こうして手を伸ばせば触れられる距離にいても、彼に触れていいのは私じゃない。
手が届かないと思えば余計に手に入れたくなる。
私が欲しいものを全て持っている郁美が羨ましくて、恨めしかった。