最終話-1
母親たちは肩を寄せ合い、マヤの方を指さしながら、ひそひそと何事か囁きあっているように見えた。
暗いままの車内で、田宮が楽しげに笑う。
「因果応報、って言葉。ねえ、先生なら知ってるよね? 悪いことをしたら、きっちり罰も受けなくちゃ」
「嫌よ、そんな……あっ!」
ドアを開けて飛びだそうとした一瞬、剥き出しの太ももに鋭い痛みが走った。
足を押さえて呻く。
手に、ぬるりとした液体が触れる。
滴る血液が、スカートと座席を汚していく。
「ほら、急に動いたりするから……さあ、みんなお待ちかねよ。馬鹿なこと考えずに、言うことを聞いて」
ナイフの切っ先が閃く。
皮膚の上、薄皮一枚だけを傷つけるようなやり方で、淡々と同じ場所を傷つけ続ける。
焼けつくような激痛に、耐えきれずにマヤは泣きながら懇願した。
「痛い……わかったから、もう、やめて……」
「ねえ、先生。わたしね、ユリアちゃんのパパ、ちょっとだけ好きだったんだ」
「え……?」
高峰ユリアの父親。
マヤが最初に、この職場で関係を持った相手。
「いい男だよね。いつだったか、偶然、先生とあのひとがホテル入るところ見ちゃった。許せないな、って思った。だって、先生は若くて、綺麗で、どんな男の人にでも好かれるじゃない。ずるいよね」
「それは……」
「わたしなんてさ、40超えても一回もデートもしたことないのに。いまだに処女よ? 笑っちゃうよね? どうせ陰で、ブスだのババアだの言って馬鹿にしてたんでしょ?」
否定する間もなく、狂ったような勢いで田宮の言葉が吐き出される。
それは妙に切実な響きを帯び、マヤは何も言い返すことができなかった。
「だから、ユリアちゃんのママが教室に来たとき、先生が見てない隙にお話したのよ。パパさんと先生、こんなことになってますよ、って」
母親は、確実な証拠がほしいと言ったそうだ。
必要経費、謝礼は十分に支払うとも。
初めは高峰とのことだけを調べていた田宮だったが、そのうちにずるずると他の父親たちとの関係もわかってきたらしい。
「あとは同じ。ママさんたちに話して、お金をもらって、調べて。薄汚いよね、ひとのあらを見つけて商売にするなんてさ……自分にすごく似合ってるなって思った。ママさんたち、それなりに対面があるから、大騒ぎしたりはしなかったから助かったかな」
いつか、みんなでまとめて仕返しをしてやろうと狙っていたようだった。
ところが、盗聴を続ける中で、マヤが逃げようとしていることがわかり、焦った、と田宮は言う。
「だってさ、逃げられちゃ、わたしの商売も終わっちゃうでしょ? だから、今回は先生が逃げちゃう前に、みんなの腹立ちをぶつけてもらおうっていう、そういう趣向なの」
「趣向……」
「見ればわかると思うけど、ここは丘の一番上だし、まわりの家とも距離があるのね。で、防音もバッチリらしいから。せいぜい、みんなのストレスを発散させてあげてよ」
殺されることはないはずだし、という田宮の言葉が終わる前に、助手席の窓ガラスがノックされた。
ほの暗い月明かりの下で、早く出て来いというような身振りをしているのがわかる。
「さ、行きましょうか」
田宮がマヤの背を押し、外に出るように促す。
母親たちが車に近寄ってくる。
背筋が寒くなる。
冗談じゃない。
こんなところで捕まって、ぐずぐずしている時間はないのに。
こうしている間にも、社長たちが大騒ぎして、マヤを探し始めるに違いない。
せっかく手に入れた金を、みすみす手放すのも惜しい。
どうしよう。
考えがうまくまとまらない。
「ねえ、逃げられるわけないでしょ? どうしてさっさと言うことが聞けないかなあ?」
田宮の苛立った声の後、後頭部にガツンと衝撃を感じた。
何か堅いもので殴られた、と思うと同時に景色がぐらりと傾いだ。
マヤはそのまま意識を失い、助手席のシートにぐったりと倒れ込んだ。