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集落にたった一軒、花屋がある。その前を通るとウタが「ちょっと待って」と足を止める。
水を張ったバケツに差し込まれている梅の枝があった。濃い桃色の花を幾つかつけている。
「おばちゃん、この梅の花、随分早いね」
おばさんはエプロンで手を拭きながら店の入り口に出てきた。
「それは農協センターで買い付けてきたやつだっけさ。飾り付けなんかに使えるやつだから、あったけぇところでなった梅で」
「これ、一本ちょうだい」
おばさんは「好きなの選んで」とウタに言い、ウタは真剣に枝を見比べて、その中から一本を選んだ。
お金を払い、それからおばさんに「包まなくていいです」と伝え、裸のままの梅の枝を持つと、私の方へ向けた。
「これは俺からのプレゼント。って言っても東京まで持って帰るの大変だろうからその辺に捨てちゃって構わないけど」
少し自嘲気味に笑うウタを見て、私も少し笑って「ありがとう」と礼を言って受け取ると、今度は私から手を握った。
消火栓の赤い箱が見えてきた。幼い頃、道に迷ってもこの消火栓がある坂道を上っていけば祖父母の家がある、と覚えていて、二人が目印にしていた消火栓だ。そこに辿り着くと、どちらからともなく手を離した。瞬時に手の平から温もりが失せていき、胸の奥に鉛玉でも入れられたようにきつく、苦しくなる。いつまでも、手を握っているわけにはいかないのだ。
「ウタはいつ帰るの?」
「俺は明日仕事が入ってるから、だから今日の夜には」
「そっか」
一歩一歩踏みしめる毎に、二人の時間に終わりが近づく。思わず歩幅が狭くなり、少し距離が離れたウタが立ち止まる。
「おーい」
ウタの声に、また私は普段の歩幅で歩き始める。二人の時間も人生も、いつかは終わりを迎える。その時に後悔をしないために、二人はお互いの過去に蹴りを付けたのだ。前を向いて歩かなければ。
「ねぇウタ、この木さ、雀のところにお供えしちゃだめかな?」
ウタは目を細めて笑い「いいんじゃない」と言う。私達は真っ直ぐ玄関には向かわず、建物の横にある通路から、畑に出た。畑は雪に埋もれて、子供が来たら喜びそうだと想像する。
畑の隅に一本だけ、梅の木がある。まだ木の根元には雪が深く積もっていて、芽吹くにはもう少し時間がかかるかも知れない。でも着実に、角張った枝のその先端は赤みがかっている。
あの時ウタが雀のために掘った穴の場所を何となく思い起こして、ゆっくりと、濃い桃色の花をつけた梅の木を、誰も踏んでいない真っ白い雪に挿した。まるで雪に滴る血液のように、濃い桃色は限りなく紅に近く映えた。
私は合掌し顔を上げると、ウタも同じように合掌した。
その夜、ウタとコウ兄は車で帰っていった。次に会うのはいつだろうね、とお互い笑って手を振った。
翌朝、父が運転する車でホテルから祖父母の家に着くと、一足先に到着していた母が私を手招きした。
「何」
喪服にシワがつかないように注意しながら、母が座る横に正座をした。参列するのは身内だけだから、広間はがらんとしていて少し寒い。私は脱いだコートを母の膝にかけてやった。
母は思い詰めたような顔で、少し時間をおいた後、一つ溜め息を吐いてから口を開いた。
「ウタくん、今日から入院なんだって」
「は?!」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまい、口を抑えるが、思いがけず見開いた目は閉じない。
「脾臓ってところに癌があって、千里なら分かるでしょ。見つかった時にはもう、手遅れで、ここに来るまでもずっと入院してたの。千里には内緒にしてくれって言われてたからお母さん言わなかったんだけど」
既に母の姿は霞んでしまって、よく見えなかった。私はコートも着ないまま玄関へ走り、昨日ウタが履いていたゴム長を履くと、庭の梅の木まで走った。ゴム長が雪に埋もれ、ストッキングの足がそのまま雪に入り込んでしまったけれど、痛くはなかった。冷たくもなかった。
胸の中の痛みとは、比べ物にならなかった。
検査技師だから分かっている。脾臓の癌は見つかったら予後が悪い。
「自分の感情を胸に秘めたまま死んでいくのって、嫌だなって思ったんだよ」
ウタの言葉が、ウタの声として、梅の木の根元から響いてくる。私はそこに立ち尽くしたまま、双眸から流れ出る涙が雪に吸い込まれる様を上から眺めていた。
最期だと分かっているのなら、もう少し話がしたかった。もっと伝えたかった。もっと手を握っていたかった。もっと、もっと。
木の根元にしゃがみ込み、すすり泣いた。誰も来ない庭の片隅で、震えているのは寒さのせいではない。抑えようにも抑えられない涙は嗚咽とともに体外に排出され、雀の元へと吸収されていく。生き返る事のない、雀の元へ。雪から伸びた、血液のように濃い色をした梅の花は、いつまで咲いていられるだろうか。いつまでこの冷たい雪に耐えられるだろうか。
ウタは、いつまで耐えられるのだろうか。
祖母の葬儀が始まるまで、私は暫く梅の木の傍から離れられなかった。