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夕焼けの窓辺
【その他 官能小説】

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第6話-20

しっかりとその感触を確かめるかのように、ぎゅっと手の中に包み込んで、胸元の前できつく両手を握り締める。金属の冷たい感触に触れると、胸の奥が熱くなった。
ふと、机の方に目を向けると、彼のお手製の朝食が用意してあった。
思わず、英里は溜息を漏らした。
やはり、彼の昨日の言葉は単なる寝言だったのではないだろうか。
ここまでそつなくこなされてしまうと、結婚しても英里の出る幕などなさそうだ。
何も出来ない自分自身を見て、きっと彼に呆れられるに決まっている。
(圭輔さんって奥さん…てゆうかお母さんみたいだな…)
言われた通りにシャワーを借りて軽く身支度を整えた後、相変わらず腕の確かな彼の料理をありがたく頂きながら、英里は何となくそんな事を思った。
昨夜の出来事は、もしかして夢だったのだろうか。
仮にも結婚という言葉を出したならば、ちょっとした変化が見られそうなものだが、今朝の彼の素振りは、普段と全く変わった様子はなかった。
だが、わざわざ合鍵をくれたのは?
ぴたりと箸が止まり、英里の胸の裡にまた熱い感情が込み上げてくる。
(うん、きっと気のせい…深い意味はないんだよね…)
彼が先に家を出ないといけないから、ただ、戸締りを頼むついでにくれただけ。
無理矢理そう自分に言い聞かせて、英里は最後の一口を食べ終えた。
せめて使った食器くらいは洗おうと、流しへと向かう。
蛇口から流れ出る水がシンクを叩く音を聞きながら、また英里は思い悩み始める。
最近、いや、圭輔と出会った頃から、それまで自分が経験した事のなかった、感情の振れ幅が大きくなる出来事が増えた気がする。
こういった人の心の機微に触れる事に関しては、彼女は今まで避けてきた分、不器用で、複数の事態に同時には対処できない。
それを彼女自身もわかっていた。だから、1つずつ解決していけばいい。
…まずは、友人に昨夜の事について話を聞こう。
そう決めると、英里は蛇口の水を止めた。
今日の大学の講義は2限からで、まだ少し時間に余裕がある。
あれから部屋の片づけをし、一通り終えた英里は、カバンの中から携帯を取り出すと、メールを打ち出した。
細い指先が、小さなボタンの上を軽やかに走っては、止まる。その繰り返し。
昨夜の事をどう友人に切り出せばいいのか、打ちながら悩んでいた。
何度も内容を修正して、ようやく送信ボタンを押すと、すぐさま友人から返事がきた。
授業中のはずなのに、と思いながらも、英里はちゃんと返事が来た事に、とりあえず安堵した。
もう何年も彼女を偽り続けてきたのだから、怒らせてしまったかもしれないと思っていたからだ。



放課後、友人と一緒に夕食を食べに行く約束をしていた英里は、待ち合わせの店に彼女よりも早く着いた。
大抵の場合、英里の方が相手よりも早く着いてしまう事が多かった。
今回も待たせないように、15分も前から待ち合わせ場所へ来て、入り口のところに立っていた。
どんな顔をして、彼女を待っていればいいのか、少し気が重い。
ただ1つだけ付けている、携帯のストラップのマスコットを指で弄んでいると、人が近付いてくる気配がした。
英里はぱっと顔を上げてその方を見ると、英里と同じく少し気まずそうな表情を浮かべていた友人、穂積陽菜の姿があった。
英里と目が合った瞬間、彼女は咄嗟に、いつもと変わらぬ無邪気な笑顔を見せる。
そんな気遣いをさせてしまう事に、英里は申し訳なさを感じた。
今夜は、はっきり彼女に話をするつもりでここにいる。言葉で思いを表現するのは得意ではない自分が、どこまでわかってもらえるのか、不安な気持ちが過る。
それを振り切るかのように、英里もいつものように控え目な微笑を浮かべて、彼女を迎えた。
「英里、遅くなってごめんね」
「ううん、大丈夫。私が早く着きすぎただけだから」
「相変わらず律儀だよねぇ。それに、どっか席に座って待ってりゃいいのに…」
「…そうかな?」
英里は、不思議そうに言った。彼女はそういう性分なのだから、特に苦痛であるとも思っていないのだ。むしろ、遅れて相手を待たせた場合を考える方が辛い。
案内された席に着いて、しばらくの間当たり障りのない会話を交わす。
アルコールは、陽菜が飲ませようとしなかったし、英里自身も飲もうとはしなかった。
軽く食事をして、空腹が満たされてくると、英里はようやく話を切り出した。
「あの、さ、昨日は迷惑掛けて本当にごめんね」
「ん?いいよ、別に。あたしは何もしてないし」
歯切れの悪い英里の喋り方に、彼女は気にしないでとでも言わんばかりに、明るくそう答えた。
「それより、あたしもごめん。勝手に携帯見て…」
今度は、逆に彼女の方がそう口ごもる。
「陽菜こそ悪くないから、謝らないで」
一瞬、2人の間に沈黙が下りる。
互いに、気まずそうに視線だけを相手の方に向ける。
「私と、先生が付き合ってるって知ってたの?」
「英里と先生って、いつから付き合ってたの?」
尋ねる声が見事に重なり、また互いに押し黙る。
ふーっ、と大きく溜息を吐いて、陽菜は天井を仰ぐ。
「…だめ、あたしこういう焦れったいの苦手」
投げやりな口調で言い放ち、グラスに注がれた水をぐっと呷る。
「だって英里ってば水くさいんだもん。あたしだって、さすがにこんな事誰にも言ったりしないのに…教えてくれたっていいじゃん」
そう口を尖らせた彼女が可愛らしくて、英里も思わず破顔した。
それから、重かった雰囲気が和らいだ。
「そうだね、私が悪かった。なかなか打ち明けるタイミングが掴めなくて…」
「ま、いいや。これからたっぷり聞かせてもらうから」
陽菜はもう一度座り直すと、にっこりと愛嬌のある微笑を浮かべた。


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