投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

濃霧の向こう側に手を伸ばして
【大人 恋愛小説】

濃霧の向こう側に手を伸ばしての最初へ 濃霧の向こう側に手を伸ばして 28 濃霧の向こう側に手を伸ばして 30 濃霧の向こう側に手を伸ばしての最後へ

11-1

 逃げられないと悟ったのか、俺が初めに座っていた、はめ殺しの窓の所にしゃがんで、ライブハウスの後片付けが終わるのを待っていた。
「桜井君」
 肩を叩いたのは香山さんだった。
「あれ、来てたんすか?」
 俺の驚いた顔に香山さんは「当たり前だろー」と笑う。
「濃霧の向こう、良かったよ。乗り移ったみたいだった。って言ったら嫌かも知れないけど」
「別にいいっすよ。今日はトリビュートだから、その方がいいでしょ」
 シールドをくるくる巻きながら、顎で窓の方を指し示した。
「桐ちゃん?」
 香山さんは目をまん丸にして叫ぶとキリに近づき、しゃがんで何か言葉を交わしている。生きている事が分かってほっとしているだろう。あとは今関さんのお母さんにも連絡を入れなければ。連絡先が書かれた紙は、家に置いてきた。
 ギターケースから、今日のイベントのビラの残り数枚を取り出し「下島くーん、あげる」と言って苦笑いする彼の手にねじ込んだ。
 ふと見たキリは、笑っていた。香山さんと言葉を交わし、きちんと笑えていた。酷く安堵した俺は、足元にあったスピーカーに足を取られ、危うく派手に転がる所だった。
 俺はオーナーさんと二言三言言葉を交わし、それからギターケースを担ぐとキリの所へ行った。
「帰るよ」
 俺が手を差し出すと、キリは少し困ったような顔をして、それでも俺がしつこく手を目の前に差し出すからか、仕方が無いと言った態で俺の手を握った。
「荷物は? ホテルにあるの?」
 口を真一文字に結んだキリは、暫くそれを動かさなかったが、彼女の手を引っ張るとその口をやっと開いた。
「無いよ。今日私も健司のとこに行こうと思ってたから」
 やはり俺の思考は的を射ていたという事だ。十階分の階段を駆け下りた自分を内心で褒めてやる。霧の向こうに消えようとしていた彼女を、こちらの世界に引きずり込む事に成功したのだから。
 真っ直ぐ家に帰る事も考えたが、やはりやめた。
「今関さんのお母さんとこ、連れてってよ」
 そう言って俺は、自宅がある駅に向かうのとは違う電車に乗り込んだ。

「桐子ちゃん!」
 今関さんの家までの道のりは、キリがきちんと教えてくれた。今関さんのお母さんは目を潤ませてキリの両手を握った。キリは一言お母さんに謝罪をすると、部屋の奥へと入っていく。
 俺はリビングに通されたので、今関さんに線香を手向けた。仏壇の横、開いた襖の奥にある和室は電気が消えていたけれど、リビングからのオレンジがかった明かりが差し込み、そこには大人用の布団に横になったキリの子供が眠っていた。隣には寄り添うようにキリがいた。声を殺して泣いていた。その背中は、一人で子供を育てていくにはあまりに小さく、頼りなく、痛々しいものだった。
「桜井さん、ありがとうございました」
 涙ぐんで心からの笑みを浮かべる彼女に俺は「何事もなくて良かったです」と笑顔を交えて返す。
「生きてたってだけで、もう何もいらない。あとはこれからどうするか、あの子が決めたらいいと思ってる」
 首を傾げるようにして頷くと、俺はテーブルに置かれた紅茶を一口飲んだ。
 これからキリはこの家で、今関さんのお母さんと、子供と三人で暮らしていくのだろう。きっと今関さんのお母さんは、キリを家族同然に扱ってくれるだろう。自分の孫を生んだ娘なのだから。



濃霧の向こう側に手を伸ばしての最初へ 濃霧の向こう側に手を伸ばして 28 濃霧の向こう側に手を伸ばして 30 濃霧の向こう側に手を伸ばしての最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前