11-2
その日は結局、キリと二人、俺の家に戻った。明日、キリは俺の家に置いてある荷物を引き上げて、今関さんの家まで俺が送り届ける事を、今関さんのお母さんと約束をした。
帰りの電車で俺はしきりにキリに話し掛けたけれど、キリは頷くか首を横に振るだけで、口を開かない。俺が一方的に話し掛け、人が少なくなった列車の中には俺の声だけが響いているような状況だった。
「健太郎君も、ママが帰ってくるの、嬉しいだろうな」
キリは頷くわけでもなく、車窓の向こう側に視線を投げた。そこには次から次へとビルの明かりが通り過ぎていく。
「キリは嬉しいだろ、今関さんのお母さんも優しそうだし、健太郎君と二人面倒見てくれるって言ってるし」
頷くと思いきや、彼女は少し俯いて、それから首を傾げる。それから間の抜けた音とともに口を開くと、また閉じてしまった。
「何、話してみなよ。話したい事あるんじゃないの」
すると彼女は一度きゅっと唇を引き締め、それから「あの」と声を発した。
「健太郎には、悪い事をしたと思ってる。いくら精神的にアレだったとしても、あんなに小さい子を」
俯いた彼女の横顔をそっと見遣ると、口の端が痙攣している。泣くのを我慢しているのかも知れない。
「でも、あの家にはいちゃダメだと思う。ずっと健司の亡霊に追いかけられて、私ずっとダメなままだと思う」
俺は彼女が少しでも話しやすいように、少し笑みを浮かべて頷くにとどめた。
「嫌なら嫌って言ってね。私は武人と健太郎と、三人で暮らしたい」
呆けたような顔になっていたと思う。俺はそのまま何も言えず、キリの横顔を見ていた。彼女の顔は大真面目で、別にふざけた事を言っている様子はない。
「でもほら、俺、今関さんにそっくりだよ。それこそ今関さんの事忘れられないんじゃない?」
キリは髪を放るみたいに激しく首を振り「そんな事ない」と言う。
「だって、武人と健司は違うもん。全然違う人だもん。見た目で近寄ったけど、中身に惚れたんだもん」
彼女の真っ直ぐな物言いに戸惑い、声が出ない。
自分の気持ちはどうなのか。キリがいなくなってしまって俺は焦りに焦った。霧の向こうに行ってしまうのではないかと焦り、一歩手前でその手を掴んだ。もう、離してしまわないように、しっかりと。
それは、彼女の自殺を引き止めたかっただけではなかったはずだ。俺の元に彼女をとどめておきたかった。彼女の隣に俺がいて、俺の隣には彼女がいる。あの摩訶不思議な二人の六畳間に、戻りたかったのではないか。
俺はキリの右手に、左手を重ねた。いつもみたいに冷えきった手だった。
「キリが、そう思うなら、俺はいいよ。でも今関さんみたいにお金持ちじゃないから」
「いいよ、って何、いいよって」
俺の話を遮るように声を張り、珍しく鋭い視線をこちらに寄越す。俺は暫く考えて、「俺も同じ事を考えてたって事」と目を逸らして言った。
視線を彼女に戻すと、彼女は一気に力が抜けたみたいに頬を緩めて、心無しか頬の血色が戻ってきた。
「俺は約束を全うするよ。公務員だからな。堅いぜ。だからもう少しして落ち着いたら、キリは桜井桐子になるんだ」
少し驚いたように口元を抑え、それから目の下縁に光るものをためて「うん」と大きく頷く。
その後は、少し広い家に引っ越そうだとか、車を買おうとか、そんな話をしたのだけれど、キリは微笑んで頷くばかりで口を開かなかった。それでも俺は満足だった。
やっと連れて帰って来れたという安堵で胸がいっぱいになっている中、玄関に挟んであったビラが、なくなっている事に気付く。
「もしかしてキリ、ここに来た?」
ここでも声に出さず頷く。
「そうかそうか。良かった」
あのビラを彼女が手にしていなかったら、俺のライブを聴きに来る事は無かっただろう。そうしたら彼女は、誰にも何も告げずに霧の向こう側へ、夫を追って行く事になっていただろう。
俺は玄関の鍵を開け、先にドアをくぐる。靴を脱ぐと、キリはパンプスを引きずるようにしてゆっくりと玄関の中に入った。
両手を大きく広げ、できうる限りの笑顔で、言った。
「キリ、お帰り」
「ただいま、武人」
相変わらず彼女は、発泡スチロールみたいに重さがなくて、それでも俺の胸に飛び込んできた軽いキリには、三十六度ぐらいの体温が、きちんと宿っていた。