投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

濃霧の向こう側に手を伸ばして
【大人 恋愛小説】

濃霧の向こう側に手を伸ばしての最初へ 濃霧の向こう側に手を伸ばして 12 濃霧の向こう側に手を伸ばして 14 濃霧の向こう側に手を伸ばしての最後へ

-1

 それからは、職場に着くと一回、仕事中に一回、昼休みに一回、午後に一回、帰る前に一回メールをした。それでキリは満足らしく、玄関の前で待っている事もなくなったし、勿論鍵を隠す事もしていない。いつも夕飯を作って待っていてくれる。洗濯物を畳んで、掃除をしておいてくれる。キリが日常に融け込んいる。
 彼女に対して何か特別な感情がわいてきている気がし始めた。しかし、どうしたって彼女の正体がよく分からない。だから自分の感情のぶつけ先が分からない。なぜ俺に近づき、俺の家に住まい、それで満足しているのか。それが分からなければ、自分の思いをぶつける事も、彼女の感情を受けとめる事も、どちらも満足にできない。
「今日はカレーだよー」
「匂いで分かる」
 俺は少し乱暴に言って上着をハンガーにかけると、ちゃぶ台の前に座った。冷えきった顔面に、カレーから立ち上る湯気が当たる。レトルトじゃないカレーなんて、久しぶりに口にする。
「子供の頃、カレーって凄くご馳走じゃなかった?」
「あぁ、確かに。実際すげぇ簡単に作れるのにな。母ちゃん出し惜しみしてんじゃねーよって感じ」
 キリはケタケタ笑って、湯気の立つカレーを自分の目の前に置いた。
「キリの家は、福神漬けって一緒に食べる家だった?」
「うちは食べない家だよ。武人は?」
 うちもだよ、と返事をしながら、俺の心の中に少し暖かい物が流れた。キリにもカレーを一緒に食べるような暖かな家族がきちんといる事を知った。少なくとも子供頃はそうだったのだろう。しかし、今は、どうしているのだろう。
「キリ、家族とは一緒に住んでないの?」
 一瞬、彼女の顔に影が落ちた。俺は驚いて瞬きが増える。
「住んでないよ。家族なんていないよ」
 鍵の在処を白状しなかった時と同じ、無機的な声を出している。どう贔屓に聞いても、それが虚言だという事は分かった。キリはあまり嘘を吐く事が上手ではないのだろう。こうして顔を合わせている時は特に、嘘は吐けないらしい。
「心配してるんじゃないの。もし一緒に住んでないにしてもさ。連絡取れないと思ってんじゃねーの」
 スプーンを握ったまま、表情が読み取れない程に俯いてぼそっと「家族の話はもう、いいから」と言った。ヘアゴムに届かなかったサイドの髪の毛で、彼女の表情は隠されていて、どんな表情をしているのかが分からない。俺はこの重い空気をどうにか軽くしたくて言葉を探したが、良い言葉は転がっていなくて、捉える寸前で逃げて行く言葉を頭の中で追いかけながら、黙ってカレーを食べた。キリは顔をあげず、ゆっくりゆっくり、カレーを口に運んでいた。



濃霧の向こう側に手を伸ばしての最初へ 濃霧の向こう側に手を伸ばして 12 濃霧の向こう側に手を伸ばして 14 濃霧の向こう側に手を伸ばしての最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前