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二曲を歌い終え、遠くで聴いてくれていたかも知れない人に届くように、大きな声で「ありがとうございました」と叫ぶ。俺は彼女の目の前で、ケース内に散らばったビラをひとまとめにしてクリアファイルに突っ込み、ギターと一緒にケースにしまった。フタを閉め、金具を止める。俺が片付けをしている間も彼女は、その場にしゃがんだまま、じっと俺の顔だけを見ている。
「あの、もう今日は歌いませんけど?」
俺がそう言うと、彼女は笑いを貼付けたまま「うん」と声だけで頷く。
怪訝気な顔を向けそうになるが、相手は曲を聴いてくれたお客さんだからそんな風にあしらうわけにもいかず、「ありがとうございました」と再度頭を下げ、俺はギターケースを担いだ。すると彼女もスクッと立ち上がる。やっと動く気になったらしく、ボストンバッグを肩に掛け直している。「じゃぁ」と言って俺は自宅の方に向かって歩き出した。交差点はタイミング良く緑色を光らせている。
背後から、ペタ、ペタ、と一定のリズムで足音がついてくる。音ははっきりしているのに、まるで重さを感じない。骨張った足首とくるぶしが目に浮かぶ。まさか思って顔を後ろに向けると、グレーのワンピースにカーキのジャケットを羽織った彼女が、カーテンのような裾を蹴りながら歩いている。相変わらず、薄らと笑っている。赤いパンプスが前後する。
「あの、家、こっちなんですか?」
俺の質問に「ううん」と否定しながらも、歩みを止めない。
信号待ちでは俺の斜め後ろで信号が青になるのを待ち、俺が右に曲がると右に曲がる。途中の狭い路地を右に入ると彼女も入る。付けられているとしか思えない。試しに別の道に入ってみたが、彼女は俺の歩く後ろを黙ってついてくる。
遂には自宅のアパート前まで到着してしまい、俺は思い切って後ろを振り向いた。
「あの、何なんですか? 家、こっちじゃないんですよね?」
口角だけをきゅっと引き上げ「こっちじゃないよ」と語尾を上げて答える。肩に掛けたバッグを重そうに掛け直し、そして「うん」と意味なく頷く。要領を得ない。
「僕に用事でもあるんですか?」
すると彼女は「ふふっ」と小さい声で笑い、その瞬間だけ頬が緩んだのが見えた。「用事があるって言ったらさぁ、家に入れてくれる?」と首を傾げ、俺を見上げる。彼女は小さいが、垂直に近く見上げなければならない程、彼女が俺に近づいている事に気付き、一歩後ろに引く。凄く澄んだ声だ、と場違いな事を考える。他者に取り入ろうとするような甘えた声ではない。樹海の木々の合間からさす日の光のように、真っ直ぐで澄んだ声をした人だ。そんな事に思考を占拠され、次に言うべき言葉を探し回る。彼女が言っている整合性を欠いた話を再度思い出し、俺は食って掛かる。
「は? 何で知らない人を家にあげなきゃなんないんですか」
「知らない人、んふふ」
何がおかしいのかさっぱり分からなかったが、彼女は笑っている。伏し目がちなその目の中の、瞳までがしっかり笑っているかどうかは、俺の知る所ではなかった。クスクス声に出して笑う彼女の声に俺は少し苛つき、遂にはまくしたてた。
「何なんですか、俺の家までついて来て、家にあげろ? ストーカーですか? 警察に言いますよ? 通報しますよ? 交番まで行きますか?」
主語が「僕」から「俺」に変わっている事にすら気付かないぐらい、俺は苛立っていた。しかし俺がそう言う間にも口元の笑みは微塵も消さず、「ねぇ」と俺をじっと見る。
「あのさ、ソニックスの今関に、似てるって言われた事あるでしょ?」
俺は驚いて瞠目した。何度か、いや、何度も言われた事がある。ソニックスというバンドのボーカル、今関健司に似ている、と。いや、今になっては「似ていた」になるのかも知れない。
ソニックスは俺が以前拠点にしていた駅で、弾き語り仲間同士でバンドを結成し、のし上がった、いわば俺達の憧れのバンドだ。今関さんは俺よりも五歳ぐらいは年上で、あっという間にメジャーデビューを果たした。今関さんと会話した事は何度もあるし、ライブもいくつか一緒にやった。
「俺達、ほんっと似てるよな」
本人にそう言われたのだ。勿論、自分でも自覚していた。髪型は違えど、顔はそっくりだったのだ。骨格が似ているからなのか、声も似ている。憧れの人に似る事は喜ばしい事ではあるが、同じ音楽の業界で、同じような顔をしていると、どう頑張ったって俺は二番煎じになってしまう。だから、似ている事は嬉しくても他人から「似てるね」と言われる事はあまり嬉しい事ではなかった。
しかし、今ではそんな事を言う人も少なくなった。
今関健司は、一ヶ月程前に自宅で首を吊って死んだ。風呂場の物干棒にネクタイを引っ掛けて死んでいたらしい。横浜の自宅で、家族によって発見されたという。遺書らしい物もあり、自殺と断定された、とテレビのニュースでキャスターが喋っていた。