9 牢獄の黒い竜-2
「兄がご迷惑をおかけして、申し訳ございません……」
「元はといえば、俺が蒔いた種だ。カティヤに非はない」
まっすぐ正面を向いたままアレシュは答え、そのまま振り返ることも言葉を続ける事もなく、回廊を歩き続ける。
磨き上げられた大理石の床や、壁際の絵画や武器の装飾品。
華美すぎる事はないが、大国ストシェーダの威信を十分誇示できる城も、夜には休息するのだろうか。
魔法の灯りが回廊のあちこちに輝き、各所には衛兵もいるのに、深夜の静けさが支配する回廊は、昼間とは異質の場所に思える。
ようやくカティヤに黒と金の瞳が向けられたのは、オーク材の重厚な扉にたどり着いてからだ。
ここに連れて来られた時に居た部屋が、そのままカティヤの客室になっている。
通路のはるか向こうに衛兵が立っていたが、アレシュが視線を向けると、心得ているとばかりに姿を消した。
「……カティヤ」
「はい」
それきり、また沈黙が降り積もる。
(一体、なんだと言うのだ?)
困惑していると、アレシュは黙ったまま後ろを向いてしまった。
どうやらよほど腹に据えかねているらしく、大きく肩で深呼吸をしている。
そして、背を向けたまま、低く小さな声でアレシュが呟いた。
「……なのか?」
「え?……あの、よく聞えなかったのですが?」
「アイツにはキスさせても平気なのか!?」
怒りの籠もった声とともに、アレシュが振り向く。
「――え?」
「俺には、あんなに拒絶反応を示したのに!」
詰め寄られ、思わずたじたじと扉に後ずさる。
「いえ、あの……あれは、故郷では当たり前の風習ですが……何か?」
親から子へ、兄姉から弟妹へ。
飛竜使いにとって重要な眼が、明日も健やかであるようにと、眠る前の簡単な祈りのようなものだ。
それを聞くと、アレシュの眉間がようやく少し和らいだ。
どうやらあの時、背後でエリアスが金縛りをかけたのは、魔眼の発動を抑えるためだったようだ。
「それでも少し……いや、かなり悔しい」
まだ拗ねた子どものような顔で、アレシュがポツリと呟く。
「義理の兄でも、結婚はできるしな」
不意の言葉に、また驚いた。
義理どころか、血統を重んじる魔法使いの間では、腹違いの兄妹で結婚することも珍しくない。
実際、現ストシェーダ国王はアレシュの異母兄だが、王妃は異母姉だ。
「……兄としては、好いております」
強制されてはいないが、養父母がその期待を淡く抱いている事は知っている。
だが、たとえベルンが相手でも、男女の仲になろうとすれば、カティヤの身体は拒むだろう。
「それに、騎士団は男ばかりですよ?情欲さえ混ざらなければ、貴方に触れられるのも、苦痛ではありません」
言いわけじみているとは思うが、本音でもあった。
今ではアレシュに、初対面の時の嫌悪をまるで感じない。それが困ってしまうのだが……。
「なら、俺がその飛竜使いの風習を真似ても、カティヤは拒否しないんだな?」
疑わしそうなアレシュに頷く。
「年長者から年下の者にするのが慣わしですので」
目を瞑り顔を上向けた。
「……?」
一向に唇が触れず、カティヤが目を明けると、アレシュが片腕をあげて真っ赤になった顔を隠した。
「卑怯……というか、酷い……な」
「ひ、卑怯!?」
聞き捨てならないセリフに、今度はカティヤが詰め寄った。
竜騎士として、一番不名誉ないわれようだ。
「私のどこが卑怯とおっしゃるのですか!」
「い、いや……」
「私なりに、貴方を信頼しているのです!好きなだけしてくださって結構で……」
深夜なのも忘れ、勢い込んで怒鳴った瞬間、抱きしめられた。
「っ」
「欲情しないなんて、無理だ」
息が止りそうなほどきつく抱き締められ、唇同士が合わさる寸前で止る。
早口とともに、突き離すように解放された。
「……でも、もう泣かせたくない」
視線を逸らしたまま、カティヤは急いで部屋に入ったから、アレシュがどんな表情をしていたのか見る事はできなかった。
心臓は激しい運動をした後のように脈打ち、動揺でおかしくなりそうだ。
あの魔眼を見たら、また余計な事を口走ってしまいそうだった。
震える手でなんとか寝巻きに着替え、寝台に飛び込んでから、結局アレシュの『持ち札』を聞きそびれてしまった事に、いまさらながら気付いた。